あげていると、そばにいる羊得が訊いた。
「どうだ。例のがま[#「がま」に傍点]はまだ出て来るか。」
「いや、江を渡ってからは消えるように見えなくなった。」
「それはいいあんばいだ。」と、羊得もよろこばしそうに言った。
「こっちの気が張っているので、妖怪も付け込むすきがなくなったのかも知れない。やっぱり出陣した方がよかったな。」
そんなことを言っているうちに、張訓は俄かに耳をかたむけた。
「あ、琵琶の音《ね》がきこえる。」
それが羊得にはちっともきこえないので、大方おまえの空耳であろうと打ち消したが、張訓はどうしても聞えると言い張った。しかもそれは自分の妻の撥音《ばちおと》に相違ない、どうも不思議なこともあるものだと、かれはその琵琶の音にひかれるように、弓矢を捨ててふらふらとあるき出した。羊得は不安に思って、あわててそのあとを追って行ったが、張の姿はもう見えなかった。
「これは唯事でないらしい。」
羊得は引っ返して三、四人の朋輩を誘って、明るい月をたよりにそこらを尋ねあるくと、村を出たところに古い廟があった。あたりは秋草に掩われて、廟の軒も扉もおびただしく荒れ朽ちているのが月の光りに明らかに見られた。虫の声は雨のようにきこえる。もしやと思って草むらを掻きわけて、その廟のまえまで辿りつくと、さきに立っている羊得があっ[#「あっ」に傍点]と声をあげた。
廟の前にはがま[#「がま」に傍点]のような形をした大きい石が蟠《わだか》まっていて、その石の上に張訓の兜が載せてあった。そればかりでなく、その石の下には一匹の大きい青いがま[#「がま」に傍点]があたかもその兜を守るが如くにうずくまっているのを見たときに、人々は思わず立ちすくんだ。羊得はそれが三本足であるかどうかを確かめようとする間もなく、がま[#「がま」に傍点]のすがたは消えるように失せてしまった。人々は言い知れない恐怖に打たれて、しばらく顔を見合せていたが、この上はどうしても廟内を詮索しなければならないので、羊得は思い切って扉をあけると、他の人々も怖々ながら続いてはいった。
張訓は廟のなかに冷たい体を横たえて、眠ったように死んでいた。おどろいて介抱したが、かれはもうその眠りから醒めなかった。よんどころなくその死骸を運んで帰って、一体あの廟には何を祭ってあるのかと村のものに訊くと、単に青蛙神の廟であると言い伝えられているばかりで、誰もその由来を知らなかった。廟内はまったく空虚で何物を祭ってあるらしい様子もなく、この土地でも近年は参詣する者もなく、ただ荒れるがままに打ち捨ててあるのだということであった。青蛙神――それが何であるかを羊得らも知らなかったが、大勢の兵卒のうちに杭州出身の者があって、その説明によって初めてその子細が判った。張訓の妻が杭州の生れであることは羊得も知っていた。
「これで、このお話はおしまいです。そういうわけですから、皆さんもこの青蛙神に十分の敬意を払って、怖るべき祟りをうけないよう御用心をねがいます。」
こう言い終って、星崎さんはハンカチーフで口のまわりを拭きながら、床の間の大きいがま[#「がま」に傍点]を見かえった。
[#改ページ]
利根《とね》の渡《わたし》
一
星崎さんの話のすむあいだに、また三、四人の客が来たので座敷はほとんどいっぱいになった。星崎さんを皮切りにして、これらの人々が代る代るに一席ずつの話をすることになったのであるから、まったく怪談の惣仕舞《そうじまい》という形である。勿論、そのなかには紋切形のものもあったが、なにか特色のあるものだけを私はひそかに筆記しておいたので、これから順々にそれを紹介したいと思う。
しかし初対面の人が多いので、一度その名を聞かされただけでは、どの人が誰であったやら判然《はっきり》しないのもある。またその話の性質上、談話者の姓名を発表するのを遠慮しなければならないような場合もあるので、皮切りの星崎さんは格別、ほかの人々の姓名はすべて省略して、単に第二の男とか第三の女とかいうことにしておきたい。
そこで、第二の男は語る。
享保《きょうほ》の初年である。利根川のむこう河岸《がし》、江戸の方角からいえば奥州寄りの岸のほとりに一人の座頭《ざとう》が立っていた。坂東太郎という利根の大河もここは船渡しで、江戸時代には房川《ぼうかわ》の渡しと呼んでいた。奥州街道と日光街道との要所であるから、栗橋の宿《しゅく》には関所がある。その関所をすぎて川を渡ると、むこう河岸は古河の町で、土井家八万石の城下として昔から繁昌している。かの座頭はその古河の方面の岸に近くたたずんでいるのであった。
座頭が利根川の岸に立っている。――ただそれだけのことならば格別の問題にもならないかも知れない。かれは年のころ三
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