寄って訊いた。
「それほどの名笛を持ちながら、こうして流浪していらるるには、定めて子細がござろう。御差支えがなくばお聴かせ下さらぬか。」
 男はやはり黙っていたが、喜兵衛から再三その返事をうながされて、彼は渋りながらに口を開いた。
「拙者はこの笛に祟られているのでござる。」

     二

 男は石見《いわみ》弥次右衛門という四国の武士であった。彼も喜兵衛とおなじように少年のころから好んで笛を吹いた。
 弥次右衛門が十九歳の春のゆうぐれである。彼は菩提寺に参詣して帰る途中、往来のすくない田圃《たんぼ》なかにひとりの四国遍路の倒れているのを発見した。見すごしかねて立寄ると、彼は四十に近い男で、病苦に悩み苦しんでいるのであった。弥次右衛門は近所から清水を汲んで来て飲ませ、印籠《いんろう》にたくわえの薬を取出してふくませ、いろいろに介抱してやったが、男はますます苦しむばかりで、とうとうそこで息を引取ってしまった。
 彼は弥次右衛門の親切を非常に感謝して、見ず知らずのお武家さまが我れわれをこれほどにいたわってくだされた。その有難い御恩のほどは何ともお礼の申上げようがない。ついては甚だ失礼であるが、これはお礼のおしるしまでに差上げたいと言って、自分の腰から袋入りの笛をとり出して弥次右衛門にささげた。
「これは世にたぐいなき物でござる。しかし、くれぐれも心《こころ》して、わたくしのような終りを取らぬようになされませ。」
 彼は謎のような一句を残して死んだ。弥次右衛門はその生国《しょうこく》や姓名を訊いたが、彼は頭《かぶり》を振って答えなかった。これも何かの因縁であろうと思ったので、弥次右衛門はその亡骸《なきがら》の始末をして、自分の菩提寺に葬ってやった。
 身許不明の四国遍路が形見《かたみ》にのこした笛は、まったく世にたぐい稀なる名管であった。彼がどうしてこんなものを持っていたのかと、弥次右衛門も頗る不審に思ったが、いずれにしても偶然の出来事から意外の宝を獲たのをよろこんで、彼はその笛を大切に秘蔵していると、それから半年ほど後のことである。弥次右衛門がきょうも菩提寺に参詣して、さきに四国遍路を発見した田圃なかに差しかかると、ひとりの旅すがたの若侍が彼を待ち受けているように立っていた。
「御貴殿は石見弥次右衛門殿でござるか。」と、若侍は近寄って声をかけた。
 左様でござると答えると、かれは更に進み寄って、噂にきけば御貴殿は先日このところにおいて四国遍路の病人を介抱して、その形見として袋入りの笛を受取られたということであるが、その四国遍路はそれがしの仇でござる。それがしは彼の首と彼の所持する笛とを取るために、はるばると尋ねてまいったのであるが、かたきの本人は既に病死したとあれば致し方がない、せめてはその笛だけでも所望いたしたいと存じて、先刻からここにお待ち受け申していたのでござると言った。
 藪から棒にこんなことを言いかけられて、弥次右衛門の方でも素直に渡すはずがない。彼は若侍にむかって、お身はいずこのいかなる御仁《ごじん》で、またいかなる子細でかの四国遍路をかたきと怨まれるか、それを承った上でなければ何とも御挨拶は出来ないと答えたが、相手はそれを詳しく説明しないで、なんでもかの笛を渡してくれと遮二無二《しゃにむに》彼に迫るのであった。
 こうなると弥次右衛門の方には、いよいよ疑いが起って、彼はこんなことを言いこしらえて大切の笛を騙《かた》り取ろうとするのではあるまいかとも思ったので、お身の素姓、かたき討の子細、それらが確かに判らないかぎりは、決してお渡し申すことは相成らぬと手強くはねつけると、相手の若侍は顔の色を変えた。
 この上はそれがしにも覚悟があると言って、彼は刀の柄に手をかけた。問答|無益《むやく》とみて、弥次右衛門も身がまえした。それからふた言三言いい募った後、ふたつの刀が抜きあわされて、素姓の知れない若侍は血みどろになって弥次右衛門の眼のまえに倒れた。
「その笛は貴様に祟るぞ。」
 言い終って彼は死んだ。訳もわからずに相手を殺してしまって、弥次右衛門はしばらく夢のような心持であったが、取りあえずその次第を届け出ると、右の通りの事情であるから弥次右衛門に咎めはなく、相手は殺され損で落着《らくちゃく》した。彼に笛をゆずった四国遍路は何者であるか、のちの若侍は何者であるか、勿論それは判らなかった。
 相手を斬ったことはまずそれで落着したが、ここに一つの難儀が起った。というのは、この事件が藩中の評判となり、主君の耳にもきこえて、その笛というのを一度みせてくれという上意が下《くだ》ったことである。単に御覧に入れるだけならば別に子細はないが、殿のお部屋さまは笛が好きで、価《あたい》を問わずに良い品を買い入れていることを弥次右衛門はよく知っ
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