ていた。迂濶にこの笛を差出すと、殿の御所望という口実で、お部屋さまの方へ取上げられてしまうおそれがある。さりとて仮りにも殿の上意とあるものを、家来の身として断るわけにはいかない。弥次右衛門もこれには当惑したが、どう考えてもその笛を手放すのが惜しかった。
こうなると、ほかに仕様はない。年の若い彼はその笛をかかえて屋敷を出奔した。一管の笛に対する執着のために、彼は先祖伝来の家禄を捨てたのである。
むかしと違って、そのころの諸大名はいずれも内証が逼迫《ひっぱく》しているので、新規召抱えなどということはめったにない。弥次右衛門はその笛をかかえて浪人するよりほかはなかった。彼は九州へ渡り、中国をさまよい、京大坂をながれ渡って、わが身の生計《たつき》を求めるうちに、病気にかかるやら、盗難に逢うやら、それからそれへと不運が引きつづいて、石見弥次右衛門という一廉《ひとかど》の侍がとうとう乞食の群れに落ち果ててしまったのである。
そのあいだに彼は大小までも手放したが、その笛だけは手放そうとはしなかった。そうして、今やこの北国にさまよって来て、今夜の月に吹き楽しむその音色を、測《はか》らずも矢柄喜兵衛に聴き付けられたのであった。
ここまで話して来て、弥次右衛門は溜息をついた。
「さきに四国遍路が申残した通り、この笛には何かの祟りがあるらしく思われます。むかしの持主は何者か存ぜぬが、手前の知っているだけでも、これを持っていた四国遍路は路ばたで死ぬ。これを取ろうとして来た旅の侍は手前に討たれて死ぬ。手前もまたこの笛のために、かような身の上と相成りました。それを思えば身の行く末もおそろしく、いっそこの笛を売放すか、折って捨てるか、二つに一つと覚悟したことも幾たびでござったが、むざむざと売放すも惜しく、折って捨つるはなおさら惜しく、身の禍いと知りつつも身を放さずに持っております。」
喜兵衛も溜息をつかずには聴いていられなかった。むかしから刀についてはこんな奇怪な因縁話を聴かないでもないが、笛についてもこんな不思議があろうとは思わなかったのである。
しかし年のわかい彼はすぐにそれを否定した。おそらくこの乞食の浪人は、自分にその笛を所望されるのを恐れて、わざと不思議そうな作り話を聞かせたので、実際そんな事件があったのではあるまいと思った。
「いかに惜しい物であろうとも、身の禍いと知りながら、それを手放さぬというのは判らぬ。」
と、かれは詰《なじ》るように言った。
「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は言った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦しめられております。」
「絶えず苦しめられる……。」
「それは余人にはお話のならぬこと。またお話し申しても、所詮《しょせん》まこととは思われますまい。」
それぎりで弥次右衛門は黙《だま》ってしまった。喜兵衛も黙っていた。ただ聞えるのは虫の声ばかりである。河原を照らす月のひかりは霜をおいたように白かった。
「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。
「もう夜がふけた。」
喜兵衛も鸚鵡《おうむ》がえしに言った。彼は気がついて起ちあがった。
三
浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一|刻《とき》ほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。彼は覆面して身軽によそおっていた。「仇討《かたきうち》襤褸錦《つづれのにしき》」の芝居でみる大晏寺堤《だいあんじづつみ》の場という形で、彼は抜足をして蒲鉾小屋へ忍び寄った。
喜兵衛はかの笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは、所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を闇討にして奪い取るのほかはないと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、彼もいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とはいえ、相手は宿無しの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくてすむ。こう思うと、彼はいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って、再びここへ襲ってきたのであった。
嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によると、かの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な闇討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである、葉ずれの音をさせないように、彼はそっと芒をかきわけて、まず小屋のう
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