しから丸年《まるどし》の者は歯並みがいいので笛吹きに適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で、子供のときから他人《ひと》も褒める、親たちも自慢するというわけであったから、その道楽だけは今も捨てなかった。
 天保《てんぽう》の初年のある秋の夜である。月のいいのに浮かされて、喜兵衛は自分の屋敷を出た。手には秘蔵の笛を持っている。夜露をふんで城外の河原へ出ると、あかるい月の下に芒《すすき》や芦《あし》の穂が白くみだれている。どこやらで虫の声もきこえる。喜兵衛は笛をふきながら河原を下《しも》の方へ遠く降ってゆくと、自分のゆく先にも笛の音《ね》がきこえた。
 自分の笛が水にひびくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。吹く人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛はさとって、彼はその笛の持主を知りたくなった。
 笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しもに茂る芒のあいだから洩れて来るのであった。自分とおなじように今夜の月に浮かれて出て、夜露にぬれながら吹き楽しむ者があるのか、さりとは心憎いことであると、喜兵衛はぬき足をして芒叢《すすきむら》のほとりに忍びよると、そこには破筵《やれむしろ》を張った低い小屋がある。いわゆる蒲鉾《かまぼこ》小屋で、そこに住んでいる者は宿無しの乞食であることを喜兵衛は知っていた。
 そこからこういう音色の洩れて来ようとは頗る意外に感じられたので、喜兵衛は不審そうに立停まった。
「まさかに狐や狸めがおれをだますのでもあるまい。」
 こっちの好きに付け込んで、狐か川獺《かわうそ》が悪いたずらをするのかとも疑ったが、喜兵衛も武士である。腰には家重代の長曽弥虎徹《ながそねこてつ》をさしている。なにかの変化《へんげ》であったらば一刀に斬って捨てるまでだと度胸をすえて、彼はひと叢しげる芒をかきわけて行くと、小屋の入口のむしろをあげて、ひとりの男が坐りながらに笛を吹いていた。
「これ、これ。」
 声をかけられて、男は笛を吹きやめた。そうして、油断しないような身構えをして、そこに立っている喜兵衛をみあげた。
 月のひかりに照らされた彼の風俗はまぎれもない乞食のすがたであるが、年のころは二十七八で、その人柄がここらに巣を組んでいる普通の宿無しや乞食のたぐいとはどうも違っているらしいと喜兵衛はひと目に見たので、おのずと詞もあらたまった。
「そこに笛を吹いてござるのか。」
「はい。」と、笛をふく男は低い声で答えた。
「あまりに音色が冴えてきこえるので、それを慕ってここまでまいった。」と、喜兵衛は笑みを含んで言った。
 その手にも笛を持っているのを、男の方でも眼早く見て、すこしく心が解けたらしい、彼の詞も打解けてきこえた。
「まことにつたない調べで、お恥かしゅうござります。」
「いや、そうでない。せんこくから聴くところ、なかなか稽古を積んだものと相見える。勝手ながらその笛をみせてくれまいか。」
「わたくし共のもてあそびに吹くものでござります。とてもお前さま方の御覧に入るるようなものではござりませぬ。」
 とは言ったが、別に否《いな》む気色《けしき》もなしに、彼はそこらに生えている芒の葉で自分の笛を丁寧に押しぬぐって、うやうやしく喜兵衛のまえに差出した。
 その態度が、どうしてただの乞食でない。おそらく武家の浪人が何かの子細で落ちぶれたのであろうと喜兵衛は推量したので、いよいよ行儀よく挨拶した。
「しからば拝見。」
 彼はその笛を受取って、月のひかりに透かしてみた。それから一応断った上で、試みにそれを吹いてみると、その音律がなみなみのものでない、世にも稀なる名管《めいかん》であるので、喜兵衛はいよいよ彼を唯者でないと見た。自分の笛ももちろん相当のものではあるが、とてもそれとは比べものにならない。喜兵衛は彼がどうしてこんなものを持っているのか、その来歴を知りたくなった。一種の好奇心も手伝って、彼はその笛を戻しながら、芒を折敷いて相手のそばに腰をおろした。
「おまえはいつ頃からここに来ている。」
「半月ほど前からまいりました。」
「それまではどこにいた。」と、喜兵衛はかさねて訊いた。
「このような身の上でござりますから、どこという定めもござりませぬ。中国から京大坂、伊勢路《いせじ》、近江路、所々をさまよい歩いておりました。」
「お手前は武家でござろうな。」と、喜兵衛は突然に訊いた。
 男はだまっていた。この場合、なんらの打消しの返事をあたえないのは、それを承認したものと見られるので、喜兵衛は更にすり
前へ 次へ
全64ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング