さんという家《うち》はなかなか立派に暮らしているのですが、その女あるじが、囲い者らしいというので、近所では奥さんともいわず、おかみさんともいわず、中を取って御新造さんと呼んでいるのでした。
「なぜまた、あの御新造がそんなことを言うのかしら、やっぱり冗談だろう。」と、母はやはり笑っていました。
 わたくしも、むろん冗談だと思っておりました。ところが、お富の言うところを聴きますと、それがどうも冗談ではないらしいというのでございます。
 飯田さんというのは、わたくしの横町をはいりますと、その中ほどにまた右の方へ曲る横町がありまして、その横町の南側にある大きい家で、門の両わきは杉の生け垣になっておりますが、裏手にはやはり大きい竹藪がございまして、門も建物も近年手入れをしたらしく、わたくしどもの古家《ふるいえ》よりもよほど立派にみえます。御新造さんというのは二十八九か三十ぐらいの粋《いき》な人で、以前は日本橋とかで芸妓をしていたとかいう噂でした。この人が女あるじで、ほかにお元お仲という二人の女中がおりました。お元はもう五十以上のばあやで、お仲はまだ十八九の若い女でしたが、御新造さんがコレラになりたいと言っていることは、そのお仲という女中がお富に話したのだそうでございます。
 なぜだか知りませんけれど、御新造さんはこのごろ口癖のようにコレラになりたいと言う。どうしたらコレラになれるだろうなぞと言う。それがだんだんに劫《こう》じて来て、お元ばあやの止めるのをきかずに、お刺身や洗肉《あらい》をたべる。天ぷらを食べる。胡瓜《きゅうり》もみを食べる――この時代にはそんなものを食べると、コレラになると言ったものでした。それを平気でわざとらしく食べるのをみると、御新造さんは洒落や冗談でなく、ほんとうにコレラになるのを願っているように思われるので、年の若いお仲という女中はもう堪らなくなりました。万一コレラになったらば、それで御新造さんは本望かも知れないが、ほかの事とは違って傍《はた》の者が難儀です。御新造さんがコレラになって、それが自分たちにうつったら大変であるから、今のうちに早く暇を取って立去りたいと、お仲は泣きそうな顔をしていたというのでございます。
 その話をきいて、母もわたくしもいやな心持になりました。
「あすこの家《うち》の奉公人ばかりじゃあない。あの家でコレラなんぞが始まったら近所迷惑だ。」と、母も顔をしかめました。「それにしても、あの御新造はなぜそんなことを言うのだろうね。気でも違ったのじゃあないかしら。」
「そうですね。なんだか変ですねえ。」と、わたくしも言いました。まったく正気の沙汰とは思われないからでございます。
「ところが、お仲さんの話では、別に気がおかしいような様子はみえないということです。」と、お富は言いました。「なんでも浅草の方に大層えらい行者《ぎょうじゃ》がありますそうで、御新造はこの間そこへ何かお祷《いの》りを頼みに行って来て、それからコレラになりたいなんて言い出したらしいというのでございます。その行者が何か変なことを言ったのじゃありますまいか。」
「でも、自分がコレラになりたいと言うのはおかしいじゃないか。」
 母はそれを疑っているようでございました。わたくしにもその理屈がよく呑み込めませんでした。いずれにしても、同町内のすぐ近所にコレラになりたいと願っている人が住んでいるなぞというのは、どうも薄気味の悪いことでございます。
「なにしろ、いやだねえ。」と、母は再び顔をしかめていました。
「まったくいやでございます。お仲さんはどうしても今月いっぱいでお暇をもらうと言っておりましたが、御主人が承知しますかしら。」と、お富も不安らしい顔をしていました。
 そのうちに父が風呂から上がってまいりましたので、母からその話をしますと、父はすぐに笑い出しました。
「あの女中は何か自分にしくじりがあって、急に暇を出されるような事になったので、そのごまかしにいい加減なでたらめを言うのだ。嘘ももう少しほんとうらしいことを考えればいいのに……。やっぱり年が若いからな。」
 父は頭から問題にもしないので、話もまずそれぎりになってしまいました。
 成程そういえばそんな事がないとも言われません。自分に落度があって暇を出されても、主人の方が悪いように言い触らすのは奉公人の習いですから、飯田の御新造のコレラ話もどこまでが本当だかわからない。こう思うと、わたくし共もそれについてあまり深く考えないようになりました。

     二

 それから三日目の夕方に、わたくしはお富を連れて新宿の大通りまで買物に出ました。夕方といってもまだ明るい時分で、暑い日の暮れるのを鳴き惜しむような蝉《せみ》の声が、そこらで忙しそうに聞えていました。
 横町をもう五、六間で出ぬ
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