けようとする時に、むこうから二人づれの女がはいって来ました。お富が小声で注意するように、お嬢さんと呼びますので、わたくしも気がついてよく見ますと、それはかの飯田の御新造と女中のお仲です。
近所に住んでいながら、特別に親しく附合いもしておりませんので、わたくし共はただ無言で会釈《えしゃく》してすれ違いましたが、お仲という女中はいかにも沈み切った、今にも泣き出しそうな顔をして主人のあとに付いてゆくのが、なんだか可哀そうなようにも見えました。
「お嬢さん。ごらんなさい。あの御新造の顔を……。」と、お富はふりかえりながら小声でまた言いました。
まったくお富の言う通り、飯田の御新造の顔容《かおだち》はしばらくの間にめっきりとやつれ果てて、どうしてもただの人とは思われないような、影のうすい人になっておりました。
「もうコレラになっているのじゃありますまいか。」と、お富は言いました。
「まさか。」
とは言いましたが、飯田の御新造の身の上について、わたくしも一種の不安を感ぜずにはいられませんでした。コレラは嘘にしても、なにかの重い病気に罹っているに相違ないとわたくしは想像しました。婦人病か肺病ではあるまいかなぞとも考えました。
そういうたぐいの病気で容易に癒りそうもないところから、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなって死んでしまいたいというような愚痴が出たのを、女中たちが一途に真《ま》に受けて、御主人はコレラになりたいと願っているなぞと言い触らしたのであろうとも考えてみました。しかし生魚や天ぷらを無暗にたべるという以上、ほんとうにコレラになって死のうと思っているのかも知れないなぞとも考えられました。
九月になってもコレラはなかなかおしまいになりませんので、大抵の学校は九月一日からの授業開始を当分延期するような始末でした。おまけに今までは山の手方面には比較的少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿の方にも黄いろい紙を貼つけた家が目につくようになってまいりました。
その当時は、コレラ患者の出た家には丁度かし家札のような形に黄いろい紙を貼り付けておくことになっておりましたので、往来をあるいていて、黄いろい紙の貼ってある家の前を通るのは、まことにいやな心持でございました。そういうわけで、怖ろしいコレラがだんだんに眼と鼻のあいだへ押寄せて来ましたので、気の弱いわたくし共はまったくびくびくもので、早く寒くなってくれればいいと、ただそればかりを念じておりました。
「飯田さんのお仲さんはやっぱり勤めていることになったそうです。」
ある日、お富がわたくしに報告しました。お仲はどうしても八月かぎりで暇を取るつもりでいたところが、御新造がお仲にむかって、お前はどうしてもこの家を出てゆく気か、わたしももう長いことはないのだからどうぞ辛抱していてくれ。これほど頼むのを無理に振切って出てゆくというなら、わたしはきっとおまえを怨むからそう思っているがいいと、たいへんに怖い顔をして睨まれたので、お仲はぞっとしてしまって、仕方なしにまた辛抱することになったというのでございます。
お富はまたこんなことを話しました。
「あの御新造はゆうべ狢《むじな》を殺したそうですよ。」
「むじなを……。どうして……。」と、わたくしは訊きました。
「なんでもきのうの夕方、もう薄暗くなった時分に、どこからかむじなが……。もっとも小さい子だそうですが、庭先へひょろひょろ這い出して来たのを、御新造がみつけて、ばあやさんとお仲さんに早く捉《つか》まえろと言うので、よんどころなしに捉まえると、御新造は草刈鎌を持ち出して来て、力まかせにその子むじなの首を斬り落してしまったそうで……。お仲さんはまたぞっとしたということです。全くあの御新造はどうかしているんですね。どうしても唯事じゃありませんよ。」
「そうかも知れないねえ。」
飯田の御新造は病気が募《つの》って来て、むやみに神経が興奮して、こんな気違いじみた乱暴な残酷なことをするようになったのかも知れないと、わたくしは何だか気の毒にもなりました。しかしそんな乱暴が増長すると、しまいにはどんなことを仕出《しで》かすか判らない。自分の家へ火でも付けられたら大変だ――わたくしはそんなことも考えるようになりました。
忘れもしない、九月十二日の午前八時頃でございました。使に出たお富が顔の色をかえて帰って来まして、息を切ってわたくし共にまた報告しました。
「飯田さんの御新造がとうとうコレラになりました。ゆうべの夜半から吐いたり下したりして……。嘘じゃありません。警察や役場の人たちが来て大騒ぎです。」
「まあ。大変……。」
わたくしも驚いて門の外まで出て見ますと、狭い横町の入口には大勢の人が集まって騒いでおりまして、石炭酸の臭《
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