世にいう鬼女でござろう。」
 それから十日《とおか》ほど経つと、庄兵衛は牢役人にむかって、早くお仕置をねがいたいと申出た。実は昨夜かのお冬が牢の外へ来て、しきりに自分を誘い出そうとしたが、自分はかたく断って出なかった。みすみす魔性の者とは思いながらも、かれの顔をみるとどうも心が動きそうでならない。一度は断っても、二度が三度とたび重なると、あるいは再び心が狂い出して破牢を企てるようなことにならないとも限らない。それを思うと、我れながら怖ろしくてならないから、一刻も早く殺してもらいたいというのであった。
 その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で磔刑《はりつけ》にかけられた。
[#改ページ]

   黄《き》いろい紙《かみ》


     一

 第十の女は語る。

 近年はコレラなどというものもめったに流行しなくなったのは、まことに結構なことでございます。たとえ流行したと申したところで、予防も消毒も十分に行きとどきますから、一度の流行期間に百人か二百人の患者が出るのが精々でございます。ところが、以前はなかなかそういう訳にはまいりません。安政《あんせい》時代の大コレラというのはどんなでしたか、人の話に聴くばかりでよく存じませんが、明治時代になりましては、十九年のコレラが一番ひどかったと申します。
 わたくしは明治元年の生れで丁度十九の夏でございましたから、その頃のことはよく知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が続々出るというありさまで、まったく怖ろしいことでした。これから申上げるのはその時のお話でございます。
 わたくしの家は小谷《おだに》と申しまして、江戸時代から代々の医師でございました。父は若い時に長崎へ行って修業して来ましたそうで、明治になりましてから軍医を志願しまして、西南戦争にも従軍しました。そのとき、日向《ひゅうが》の延岡で流弾にあたって左の足に負傷しまして、一旦は訳もなく癒ったのですが、それからどうも左の足に故障が出来まして、跛足《びっこ》という程でもないのですが、片足がなんだか吊れるような具合いで、とうとう思い切って明治十七年から辞職することになりました。それでも幾らか貯蓄《たくわえ》もあり、年金も貰えるので、小体《こてい》に暮らしてゆけば別に困るという程でもありませんでしたが、これから無職で暮らして行こうとするには、やはりそれだけの陣立てをしなければなりません。父は母と相談して、新宿の番衆町に地所付きの家を買いました。
 御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ建ち続いておりますけれども、それはそれは寂しいところでございました。
 わたくしの父の買いました家は昔の武家屋敷で、門の左右は大きい竹藪に囲まれて、その奥に七|間《ま》の家《いえ》があります。地面は五百二十坪とかあるそうで、裏手の方は畑になっておりましたが、それでもまだまだ広いあき地がありました。ここらには狸や狢《むじな》も棲んでいるということで、夜は時どき狐の鳴き声もきこえました。そういうわけで、父は静かでよいと言っておりましたが、母やわたくしにはちっと静か過ぎて寂しゅうございました。お富という女中がひとりおりましたが、これは二十四五の頑丈な女で、父と一緒に畑仕事などもしてくれました。
 番衆町へ来てから足かけ三年目が明治十九年、すなわち大コレラの年でございます。暑さも暑し、辺鄙《へんぴ》なところに住んでおりますので、めったに市内のまん中へは出ませんから、世間のこともよく判らないのでございますが、毎日の新聞を見ますと、市内のコレラはますます熾《さかん》になるばかりで、容易にやみそうもありません。
 八月の末の夕方でございました。母とわたくしが広い縁側へ出て、市内のコレラの噂をして、もういい加減におしまいになりそうなものだなどと言っておりますと、縁に腰をかけていたお富がこんなことを言い出しました。
「でも、奥さん、ここらにはコレラになりたいと言っている人があるそうでございますよ。」
「まあ、馬鹿なことを……。」と、母は思わず笑い出しました。「誰がコレラになりたいなんて……。冗談にも程がある。」
「いいえ、それが本当らしいのでございますよ。この右の横町の飯田という家《うち》を御存じでしょう。」
 と、お富はまじめで言いました。「あの家の御新造《ごしんぞ》ですよ。」
 この時代には江戸のなごりで、御新造《ごしんぞ》という詞《ことば》がまだ用いられていました。それは奥さんの次で、おかみさんの上です。つまり奥さん、御新造さん、おかみさんという順序になるので、飯田
前へ 次へ
全64ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング