りぞけることは出来なくて、彼はその言うがままに人間の血汐をお冬にねぶらせた。
 その夜の閨《ねや》の内で、彼は妻からどんな註文を出されたのか知らないが、その後は日の暮れる頃から忍び出て、三日に一度ぐらいずつは往来の人を斬って歩いた。その刀の血をお冬は嬉しそうにねぶった。死人のふところから奪った金は、夫婦の生活費となった。ある夜、どうしても人を斬る機会がなくて路ばたの犬を斬って帰ると、お冬はそれを嘗めて顔色を悪くした。
「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」
 庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに劫《こう》じて来て、庄兵衛は袂に小さい壺を忍ばせていて、斬られた人の疵口から流れ出る生血《なまち》をそそぎ込んで来るようになった。
 彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の呵責《かしゃく》を感じることがないでもなかったが、その苦しみも妻の美しい笑顔に逢えば、あさ日に照らされる露のように消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の男や女を斬ってあるいた。そうして、妻を喜ばせるばかりでなく、それが男の血であるか、女の血であるかを言い当てさせるのも、彼が一つの興味となった。
 しかしこの時代でも、こうした悪鬼の跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》をいつまでも見逃がしてはおかなかった。殊に天下もようやく一統して、徳川幕府はもっぱら江戸の経営に全力をそそいでいる時節であるから、市中の取締りも決しておろそかにはしなかった。町奉行所ではこの頃しきりに流行るという辻斬りに対して、厳重に探索の網を張ることになった。庄兵衛も薄うすそれを覚らないではなかったが、今更どうしてもやめられない羽目になって、相変らずその辻斬りをつづけているうちに、彼は上野の山下で町廻りの手に捕われた。
 牢屋につながれて三日五日を送っているあいだに、狂える心は次第に鎮まって、庄兵衛は夢から醒めた人のようになった。彼は役人の吟味に対して、いっさいの罪を正直に白状した。安房にいるときに、妻と中間とを無体に成敗したことまで隠さずに申立てた。
「なぜこのように罪をかさねましたか。我れながら夢のようでござります。」
 彼もいちいち記憶していないが、元和二年の冬から翌年の夏にかけておよそ五十人ほどを斬ったらしいと言った。そうして、今になって考えると、かのお冬という一本足の女はどうもただの人間ではないかも知れないとも言った。その証拠として、かれは幾カ条かの怪しむべき事実をかぞえ立てたそうであるが、それは秘密に付せられて世に伝わらない。
 いずれにしても、お冬という女も一応は吟味の必要があると認められて、捕り方の者四、五人が庄兵衛の留守宅にむかった。女ひとりを引っ立てて来るのに四、五人の出張《でば》りはちっと仰山《ぎょうさん》らしいが、庄兵衛の申立てによって奉行所の方でも幾分か警戒したらしい。
 それは六月の末のゆうぐれで、お冬は竹縁に出て蚊やり火を焚いていたが、その煙りのあいだから捕り方のすがたを一と目みると、お冬は忽ちに起ちあがって庭へ飛び降りたかと思う間もなく、まばらな生け垣をかき破って表へ逃げ出した。捕り方はつづいて追って行った。
 一本足でありながら、お冬は男の足も及ばないほどに早く走った。その頃はここらに溝川《みぞかわ》のようなものが幾すじも流れているのを、お冬はそれからそれへと飛ぶように跳り越えてゆくので、捕り方の者どももおどろかされた。それでもあくまでも追い詰めてゆくと、かれは隅田川の岸から身をひるがえして飛び込んだ。その途中、捕り方に加勢してかれのゆく手を遮ろうとした者もあったが、その物すごく瞋《いか》った顔をみると誰もみな飛びのいてしまった。
「早く舟を出せ。」
 捕り方は岸につないである小舟に乗って漕ぎ出すと、お冬のすがたは一旦沈んでまた浮き出した。川の底で自分から脱いだのか、あるいは自然に脱げたものか、浮き上がった時のお冬は一糸もつけない赤裸で、一本足で浪を蹴ってゆく女の白い姿がまだ暮れ切らない水の上にあきらかに見えた。
 それを目がけて漕いで行くと、あまり急いで棹を損じたためか、まだ中流まで行き着かないうちに、その小舟は横浪に煽られてたちまち転覆した。捕り方は水練の心得があったので、いずれも幸いに無事であったが、その騒ぎのあいだにお冬のゆくえを見失ってしまった。ともかくも向う岸の堤《どて》を詮議したが、そこらでは誰もそんな女を見かけた者はないとのことで、捕り方もむなしく引揚げた。
 牢屋のなかでその話を聴いて、庄兵衛はいよいよ思い当ったように嘆息した。
「まったくあの女は唯物《ただもの》ではござらなんだ。あれが
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