来はみな俄浪人となった。そのなかで大滝庄兵衛は夫婦のほかに家族もなく、平生から心がけもよかったので、家には多少の蓄財もある。浪人しても差しあたり困るようなこともないので、僅かの家来どもには暇を出して、庄兵衛は館山の城下を退散した。しかし、彼は自分ひとりというわけにはゆかなかった。彼にはお冬という女が付きまとっていた。庄兵衛もそれを振捨てて行こうとは思わないので、歩行の不自由な女を介抱しながら、ともかくも江戸の方角へ向うことにして、便船《びんせん》をたのんで上総《かずさ》へ渡り、さらに木更津から船路の旅をつづけてつつがなく江戸へはいった。
それは庄兵衛が不義者として妻と中間とを成敗してから一年の後で、庄兵衛は四十六歳、お冬は十九歳の夏であった。
かれらはもう公然の夫婦で、浅草寺《せんそうじ》に近いところに仮住居を求め、当分はなす事もなしに月日を送っていた。安房の里見といえば名家ではあるが、近年はその武道もあまり世にきこえないので、里見浪人をよろこんで召抱えてくれる屋敷もなかった。お冬も武家奉公を好まなかった。一本足の女、しかも自分とは親子ほども年の違う女を、拙者の妻でござるといって武家屋敷へ連込むことは、庄兵衛もなんだか後《うしろ》めたいようにも思ったので、かたがた二度の主取りは見合せることにしたが、いつまでもむなしく遊んではいられないので、彼は近所の人の勧めるがままに手習の師匠を始めると、その人が親切に周旋して、とりあえず七、八人の弟子をあつめて来てくれた。そうなると、庄兵衛も家のことの手伝いもしていられない。足の不自由なお冬だけでは何かにつけて不便なので、台所働きの下女を雇うことにしたが、どの女もひと月かふた月でみな立去ってしまった。
あまりに奉公人がたびたび代るので、近所の人たちも不思議に思って、暇を取って出てゆく一人の女にそっと訊《き》いてみると、こんなことを言った。
「若い御新造《ごしんぞ》はあんな美しい顔をしていながら、なんだか怖い人です。その上に、あんまり旦那さまと仲が良過ぎるので、とても傍《そば》で見てはいられません。」
親子ほども年の違う夫婦が仲よく暮らしていることは近所の者も認めていたが、傍で見ているに堪えられないで奉公人らがみな立去るほどにむつまじいというのは、すこしく案外であった。
それから注意して窺うと、庄兵衛夫婦のむつまじいことは想像以上で、弟子のうちでも少しく大きい子どもは顔を赧《あか》くするようなことが度たびであった。十二三になる娘などは、もうあのお師匠さんへ行くのはいやだと言い出したものもあった。そんなわけで、多くもない弟子がだんだんに減って来るばかりか、貯えの金も大抵使い果してしまったので、仲のよい夫婦も一年あまりの後には世帯の苦労が身にしみて来た。
「わたくしはもともと乞食ですから、ふたたび元の身の上にかえると思えばよいのです。」
お冬は平気でいるらしかったが、庄兵衛は最愛の妻を伴って乞食をする気にはなれなかった。元和二年の師走《しわす》の夜に、かれが浅草の並木を通ると、むこうから来る一人の男に出逢った。それは町家の奉公人で、どこへか懸取りに行ったらしく見えたので、庄兵衛は俄かにきざした出来ごころから不意にそのゆく手に立ちふさがった。
「この師走に差迫って、浪人の身で難渋いたす。御合力《ごこうりょく》くだされ。」
一種の追剥ぎとみて、相手も油断しなかった。彼は何の返事もせずに、だしぬけに自分の穿いている草履をとって、庄兵衛の顔を強くうった。そうして、こっちの慌てる隙をみて、かれは一目散に逃げ去ろうとしたのである。
泥草履で真っこうをうたれて、庄兵衛は赫《かっ》となった。斬ってしまって、いまさら悔む気にもなったが、毒食わば皿までと度胸をすえて、庄兵衛は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文ほどはいっているだけであった。
「こればかりのことで飛んだ罪を作った。」と、彼はいよいよ後悔した。
しかし今の身の上では二貫文の銭《ぜに》も大切である。庄兵衛はその銭を懐ろにして家へ帰ったが、生れてから初めて斬取《きりと》り強盗を働いたのであるから、なんだか気が咎めてならない。万一の詮議に逢った時にその証拠を残しておいてはならないと思ったので、かれは燈火《あかり》の下で刀の血を丁寧に拭《ぬぐ》おうとしていると、お冬がそばから覗き込んだ。
「もし、それは人の血ではござりませぬか。」
「むむ、途中で追剥ぎに出逢ったので、一太刀斬って追い払った」と、庄兵衛は自分のことを逆に話した。
お冬はうなずいて眺めていたが、やがてその刀の血を嘗《な》めさせてくれと言った。これには庄兵衛もすこし驚いたが、自分の惑溺している美しい妻の要求をし
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