もないことであった。
神社は西岬村のはずれにあるので、庄兵衛はその途中、与市の実家へ久振りで立寄った。彼は娘盛りのお冬をみて、年毎にその美しくなりまさって行くのに驚かされた。その以来、彼は参詣の都度《つど》に与市の家をたずねるようになった。そのうちに江戸表から洩れて来る種々の情報によると、どうでも里見家に連坐《まきぞえ》の祟りなしでは済みそうもないというので、一家中の不安はいよいよ大きくなった。庄兵衛は洲先神社へ夜詣りを始めた。
彼の夜詣りは三月から始まって五月までつづいた。当番その他のよんどころない差支えでない限り、ひと晩でも参詣を怠らなかった。主家を案じるのは道理《もっとも》であるが、夜詣りをするようになってから、彼は決して供を連れて行かないということが妻の注意をひいた。まだそのほかにも何か思い当ることがあったと見えて、妻は与市を呼んでささやいた。
「庄兵衛殿がこの頃の様子、どうも腑に落ちないことがあるので、きょうはそっとそのあとを付けてみようと思います。おまえ案内してくれないか。」
与市は承知して主人の妻を案内することになった。近いといっても相当の路程《みちのり》があるので、庄兵衛は日の暮れるのを待ちかねるように出てゆく。妻と与市とは少しくおくれて出ると、途中で五月の日はすっかり暮れ切って、ゆく手の村は青葉の闇につつまれてしまったので、かれらは尾《つ》けてゆく人のすがたを見失った。
「どうしようか。」と、妻は立止まって思案した。
「ともかくも洲先まで行って御覧なされてはいかが。」と、与市は言った。
「そうしましょう。」
まったくそれよりほかに仕様がないので、妻は思い切ってまた歩き出したが、なにぶんにも暗いので、かれは当惑した。与市は男ではあり、土地の勝手もよく知っているので、さのみ困ることもなかったが、庄兵衛の妻は足許のあぶないのに頗《すこぶ》る困った。夫のあとを尾《つ》けるつもりで出て来たのであるから、もとより松明《たいまつ》や火縄の用意もない。妻はたまりかねて声をかけた。
「与市。手をひいてくれぬか。」
与市はすこし躊躇したらしかったが、主人の妻から重ねて声をかけられて、彼はもう辞退するわけにもゆかなくなった。かれは片手に主人の妻の手を取って、暗いなかを探るようにして歩き出した。そうして、まだ十間とは行かないうちに、路ばたの木のかげから何者か現われ出て、忍びの者などが持つ龕燈《がんどう》提灯を二人の眼先へだしぬけに突きつけた。はっと驚いて立ちすくむと、相手はすぐに呼びかけた。
「与市か。主人の妻の手を引いて、どこへゆく。」
それは主人の庄兵衛の声であった。庄兵衛はつづけて言った。
「おのれらが不義の証拠、たしかに見届けたぞ。覚悟しろ。」
「あれ、飛んでもないことを……。」と、妻はおどろいて叫んだ。
「ええ、若い下郎めと手に手を取って、闇夜をさまよいあるくのが何より証拠だ。」
もう問答のいとまもない。庄兵衛の刀は闇にひらめいたかと思うと、片手なぐりに妻の肩先から斬り下げた。
あっと叫んで逃げようとする与市も、おなじく背後《うしろ》から肩を斬られた。それでも彼は夢中で逃げ出すと、あたかも自分の家の前に出たので、やれ嬉しやと転げ込むと、母も兄もその血みどろの姿を見てびっくりした。与市は今夜の始末を簡単に話して、そのまま息が絶えてしまった。
あくる朝になって、庄兵衛から表向きの届けが出た。妻は中間の与市と不義を働いて、与市の実家へ身を隠そうとするところを、途中で追いとめて二人ともに成敗いたしたというのである。妻の里方ではそれを疑った。与市の母や兄はもちろん不承知であった。しかし里方としても確かに不義でないという反証を提出することは出来なかった。与市の母や兄は身分ちがいの悲しさに、しょせんは泣き寝入りにするのほかはなかった。
それと同時に、与市の家へは庄兵衛の使が来て、左様な不埒《ふらち》者の宿許《やどもと》へお冬を預けておくことは出来ぬというので、迎いの乗物にお冬を乗せて帰った。その日から一本足の美しい女は庄兵衛の屋敷の奥に養われることになったのである。
何分にも主人の家が潰れるか立つか、自分たちも生きるか死ぬか、それさえも判らぬという危急存亡の場合であるから、誰もそんなことを問題にする者はなかった。
三
不安と動揺のうちに一年を送って、あくれば元和《げんな》元年である。その年の五月には大坂は落城して、いよいよ徳川家一統の世になった。今まで無事でいたのを見ると、或いはこのままに救われるかとも思っていたのは空頼みで、大坂の埒《らち》があくと間もなく、五月の下旬に最後の判決が下された。里見の家は領地を奪われて、忠義は伯耆《ほうき》へ流罪を申付けられたのである。
主人の家がほろびて、里見の家
前へ
次へ
全64ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング