。ただしこれは最近の出来事ではない。なんでも今から九十年ほども昔の天保《てんぽう》初年のことだと聴いている。
 僕の郷里の町から十三里ほども離れたところに杉堂という村がある。そこから更にまた三里あまり引っ込んだところだというから、今日《こんにち》ではともかくも、そのころでは、かなり辺鄙《へんぴ》な土地であったに相違ない。そこに由井《ゆい》吉左衛門という豪家があった。なんでも先祖は菊池の家来であったが、菊池がほろびてからここに隠れて、刀を差しながら田畑を耕《たがや》していたのだそうだが、理財の道にも長《た》けていた人物とみえて、だんだんに土地を開拓して、ここらでは珍しいほどの大《おお》百姓になりすました。そうして子孫連綿として徳川時代までつづいて来たのであるから、土地のものは勿論、代々の領主もその家に対しては特別の待遇をあたえて、苗字帯刀を許される以外に、新年にはかならず登城して領主に御祝儀を申上げることにもなっていた。
 そんなわけで、百姓とはいうものの一種の郷士のような形で、主人が外出する時には大小を差し、その屋敷には武具や馬具なども飾ってあるという半士半農の生活を営んでいて、男の雇人ばかりでも三四十人も使って、大きい屋敷のまわりには竹藪をめぐらし、またその外には自然の小川を利用して小さい濠《ほり》のようなものを作っていた。土地の者がその門前を通るときは、笠をぬぎ、頬かむりを取って、いちいち丁寧に挨拶して行き過ぎるという風で、その近所近辺の村びとには大方ならず尊敬されていた。当主は代々吉左衛門の名を継ぐことになっていて、この話の天保初年には十六代目の吉左衛門が当主であったそうだ。
 由井吉左衛門にふたりの娘があって、姉はおそよ、妹はおつぎといった。この姉妹《きょうだい》がある年の秋のはじめ頃からだんだんに痩せおとろえて、いわゆるぶらぶら病いという風で、昼の食事も進まず、夜もおちおちとは眠られないようになったので、両親もひどく心配して遠い熊本の城下から良い医師をわざわざ呼び迎えて、いろいろに手あつい療治を加えたが、姉妹ともにどうも捗々《はかばか》しくない。どの医師もいたずらに首をかしげるばかりで、一体なんという病症であるかも判らない。
 おそよは十八、おつぎは十六、どっちも年頃《としごろ》の若い娘であるから、世にいう恋煩《こいわずら》いのたぐいではないかとも疑われたが、ひとりならず、姉妹揃っておなじ恋煩いというのも少しおかしい。勿論、ふたりともにどっと寝付いているというわけでもなく、天気のいい日や、気分のいい日には、寝床から起き出して田圃《たんぼ》や庭などをぶらぶら歩いているのであるが、それでも病人は病人に相違ないので、親たちの苦労は絶えなかった。
 そうすると、親たちにもいろいろの迷いが出る。土地の者もいろいろのことを言いふらすようになる。由井の家の娘には何かの憑物《つきもの》がしているか、さもなければ由井の家に何か祟っているのであろうという噂が、それからそれへと拡がって行くので、親たちもそれを気に病んで、神主や僧侶や山伏や行者《ぎょうじゃ》などを代るがわるに呼び迎えて、あらゆる加持祈祷をさしてみたが、いずれも効験がない。そのうちに、下男のひとりがこういう秘密を主人夫婦にささやいた。
 その下男は夜半《よなか》に一度ずつ屋敷内を見まわるのが役目で、師走《しわす》の月の冴えた夜にいつもの通り見まわって歩くと、裏手の古井戸のそばに二人の女の立っている姿をみつけた。夜目遠目《よめとおめ》ではあるが、今夜の月は明るいので、その女たちが主人の娘ふたりに相違ないことを早くも知って、彼は不思議に思った。大きい木のかげに隠れて、なおもその様子をうかがっていると、姉妹は手を引合ってむつまじく寄り添いながら、一心に井戸の底をのぞいているらしかった。まさかに身を投げるのでもあるまいと油断なく窺っていると、やがて姉妹は嬉しそうに笑いながら、手を引合ったままで内へはいった。
 下男の密告は単にそれだけに過ぎないが、考えてみると、不審は重々《じゅうじゅう》であると言わなければならない。若い女、ことに半病人の女たちが、なんの用があって寒い夜ふけに裏口へ出て、古井戸のなかを覗いているのかと、吉左衛門夫婦も眉をひそめた。そこで、その下男に言いつけて、あくる夜もそっと井戸のあたりに忍ばせておくと、その晩も夜のふけた頃にかの姉妹が手を引合って出て来た。そうして、ゆうべと同じように井戸をのぞいて、やはり嬉しそうに帰って行くのであった。
 こういう不思議な挙動がふた晩もつづいた以上、親たちももう打ち捨てておくわけにはいかなくなった。しかし姉妹ふたりを一緒に詮議してはかえって実《じつ》を吐くまいと思ったので、吉左衛門夫婦はまず妹のおつぎを問い糺《ただ》すことにした。年
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