かって来たが、第一線も第二線もなんの障碍《しょうがい》をなさないらしく、敵はまっしぐらにそれを乗り越えて来た。第三線もまた破られた。
 蛇吉は先度のように呪文を唱えなかった。股引も脱がなかつた。彼は持っている手斧をふりあげて正面から敵の真っ向を撃った。その狙いは狂わなかったが、敵はこの一と撃ちに弱らないらしく、その強い尾を働かせて彼の左の足から腰へ、腰から胸へと巻きついて、人の顔と蛇の首とが摺れ合うほどに向い合った。もうこうなっては組討のほかはない。蛇吉は手斧をなげ捨てて、両手で力まかせに蛇の喉首を絞めつけると、敵も満身の力をこめて彼のからだを締め付けた。
 この怖ろしい格闘を諸人は息をのんで見物していると、敵の急所を掴んでいるだけに、この闘いは蛇吉の方が有利であった。さすがの大蛇も喉の骨を挫かれて、次第々々に弱って来た。
「こいつの尻尾《しっぽ》を斬ってくれ。」と、蛇吉は呶鳴った。
 大勢のなかから気の強い若者が駈け出して行って、鋭い鎌の刃で蛇の尾を斬り裂いた。尾を斬られ頸を傷められて、大蛇《だいじゃ》もいよいよ弱り果てたのを見て、さらに五、六人が駈け寄って来て、思い思いの武器をふるったので、大蛇は蟻《あり》にさいなまれるみみず[#「みみず」に傍点]のようにのたうち廻って、その長いなきがらを朝日の下にさらした。
 それと同時に、蛇吉も正気をうしなって大地に倒れた。
 彼は庄屋の家《うち》へかつぎ込まれて、大勢の介抱をうけてようやくに息をふき返した。別に怪我をしたというでもないが、彼はひどく衰弱して、ふたたび起きあがる気力もなかった。
 蛇吉は戸板にのせて送り帰されたときに、お年は声をあげて泣いた。村の者もおどろいて駈け付けて来た。自分が無理にすすめて出してやって、こんなことになったのであるから、庄屋はとりわけて胸を痛めて、お年をなぐさめ、蛇吉を介抱していると、彼は譫言《うわごと》のように叫んだ。
「もういいから、みんな行ってくれ、行ってくれ。」
 彼は続けてそれを叫ぶので、病人に逆らうのもよくないから一とまずここを引取ろうではないかと庄屋は言い出した。親類の重助をひとりあとに残して、なにか変ったことがあったらばすぐに知らせるようにお年にも言い聞かせて、一同は帰った。
 朝のうちは晴れていたが、午後から陰って蒸し暑く、六月なかばの宵は雨になった。お年と重助はだまって病人の枕もとに坐っていた。雨の宵はだんだんにさびしく更けて、雨の音にまじって蛙の声もきこえた。
「重助も帰ってくれ。」と、蛇吉はうなるように言った。
 ふたりは顔を見合せていると、病人はまたうなった。
「お年も行ってくれ。」
「どこへ行くんです。」と、お年は訊いた。
「どこでもいい。重助と一緒に行け。いつまでもおれを苦しませるな。」
「じゃあ、行きますよ。」
 ふたりはうなずき合ってそこを起《た》った。一本の傘を相合《あいあい》にさして、暗い雨の中を四、五間ばかり歩き出したが、また抜足をして引っ返して来て、門口《かどぐち》からそっと窺うと、内はひっそりしてうなり声もきこえなかった。ふたりは再び顔を見合せながら、さらに忍んで内をのぞくと、病人の寝床は藻ぬけの殻《から》で、蛇吉のすがたは見えなかった。
 それがまた村じゅうの騒ぎになって、大勢は手分けをしてそこらを探し廻ったが、蛇吉のすがたはどこにも見いだされなかった。彼は住み馴れた家を捨て、最愛の妻を捨て、永久にこの村から消え失せてしまったのであった。
 彼が妻にむかって、この商売を長くはやっていられないと言ったことや、隣り村へゆくことをひどく嫌ったことや、それらの事情を綜合して考えると、あるいは自分の運命を予覚していたのではないかとも思われるが、彼は果して死んでしまったのか、それともどこかに隠れて生きているのか、それはいつまでも一種の謎として残されていた。
 しかし村人の多数は、彼の死を信じていた。そうして、こういう風に解釈していた。
「あれはやっぱりただの人間ではない。蛇だ、蛇の精だ。死ぬときの姿をみせまいと思って、山奥へ隠れてしまったのだ。」
 彼が蛇の精であるとすれば、その父や母もおなじく蛇でなければならない。そんなことのあろうはずがないと、お年は絶対にそれを否認していた。しかも、なぜ自分の夫が周囲の人々を遠ざけて、その留守のあいだに姿を隠したのか。その子細は彼女にも判らなかった。
 これは江戸の末期、文久年間の話であるそうだ。
[#改ページ]

   清水《しみず》の井《いど》


     一

 第六の男は語る。

 唯今は九州のお話が出たが、僕の郷里もやはり九州で、あの辺にはいわゆる平家伝説というものがたくさん残っている。伝説にはとかく怪奇のローマンスが付きまとっているものであるが、これなどもその一つだ
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