だというのを、父は無理にすすめて三歩に買うことにしました。なんだかお話が逆《さか》さまのようですが、この時分にはこんなことが往々あったそうでございます。
 いよいよ売買の掛合いが済んでから、父は相手に訊《き》きました。
「このお面は古くからお持ち伝えになっているのでございますか。」
「さあ、いつの頃に手に入れたものか判りません。実はこんなものが手前方に伝わっていることも存じませんでしたが、御覧の通りに零落《れいらく》して、それからそれへと家財を売払いますときに、古長持の底から見つけ出したのです。」
「箱にでもはいっておりましたか。」
「箱はありません。ただ欝金《うこん》のきれに包んでありました。少し不思議に思われたのは、猿の両眼を白い布《きれ》で掩って、その布の両端をうしろで結んで、ちょうど眼隠しをしたような形になっていることです。いつの頃に誰がそんなことをしておいたのか、別になんにも言い伝えがないので、ちっとも判りません。一体それが二歩三歩の値のあるものかどうだか、それすらも手前には判らないのです。」
 売る人はあくまでも正直で、なにもかも打ち明けて話しました。
 それだけのことを聞かされて、その仮面を受取って、父は吉原の家へ帰って来ましたが、あくる日になってよく見ると、ゆうべ薄暗いところで見たのとは余ほど違っていて、かなりに古いものには相違ないのですが、刀の使い方もずいぶん不器用で、さのみの上作とは思われません。これが三歩では少し買いかぶったと今さら後悔するような心持になったのですが、むこうが二歩でいいと言うのをこちらから無理に買上げたのですから、苦情の言いようもありません。「こんなものは仕方がない。まあ、困っている士族さんに恵んであげたと思えばいいのだ。」
 こう諦めて、父はその仮面を戸棚の奥へ押込んでおいたままで、自分でももう忘れてしまったくらいでしたが、今度いよいよ吉原の店をしまうという段になって、いろいろの書画骨董類を整理するときに、ふと見つけ出したのが彼《か》の仮面で、もちろんほかの品々と一緒に売払ってしまうはずでしたが、いざという時になると、父はなんだか惜しくてならぬような気になったそうです。
 そこで、これはまあこのままに残しておこうと言って、前に申した通り、五、六点の骨董のうちに加えて持ち出すことになったのでした。なぜそれが急に惜しくなったのか、
前へ 次へ
全128ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング