渡辺崋山の名画が一円五十銭か二円ぐらいで古道具屋の店《たな》ざらしになっている時節でしたから、歌麿も抱一上人もあったものでございません、みんな二束三文に売払ってしまったのでございます。その時分でも母などは何だか惜しいようだと言っておりましたが、父は思い切りのいい方で、未練なしに片っぱしから処分しましたが、それでも自分の好きな書画七、八点と屏風一|双《そう》と骨董類五、六点だけを残しておきました。
 その骨董類は、床の置物とか花生けとか文台とかいうたぐいの物でしたが、そのなかに一つ、木彫りの猿の仮面《めん》がありました。それは父が近いころに手に入れたもので、なんでもその前年、明治四年の十二月の寒い晩に上野の広小路を通りますと、路ばたに薄い筵《むしろ》を敷いて、ちっとばかりの古道具をならべている夜店が出ていました。芝居に出る浪人者のように月代《さかやき》を長くのばして、肌寒そうな服装《みなり》をした四十恰好の男が、九つか十歳《とお》ぐらいの男の子と一緒に、筵の上にしょんぼりと坐って店番をしています。
 その頃にはそういう夜店商人がいくらも出ていましたので、これも落ちぶれた士族さんが家の道具を持出して来たのであろうと、父はすぐに推量して、気の毒に思いながらその店をのぞいて見ると、目ぼしい品はもう大抵売尽してしまったとみえて、店には碌な物も列《なら》んでいませんでしたが、そのなかにただ一つ古びた仮面がある。それが眼について父は立止りました。
「これはお払いになるのでございますか。」
 相手が普通の夜店商人でないとみて、父も丁寧にこう訊《き》いたのです。すると、相手も丁寧に会釈《えしゃく》して、どうぞお求めくださいと言いましたので、父はふたたび会釈してその仮面を手に取って、うす暗い燈火《あかり》のひかりで透かしてみると、時代も相応に付いているものらしく、顔一面が黒く古びていましたが、彫りがなかなかよく出来ているので、骨董好きの父はふらふらと買う気になりました。
「失礼ながらおいくらでございますか。」
「いえ、いくらでもよろしゅうございます。」
 まことに士族の商人《あきんど》らしい挨拶です。そこへ付け込んで値切り倒すほどの悪い料簡もないのと、いくらか気の毒だと思う心もあるのとで、父はそれを三|歩《ぶ》に買おうと言いますと、相手は大層よろこんで、いや三歩には及ばない、二歩で結構
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