れば、青蛙は跳って元の箱に入る。男はしずかに蓋を閉じ、更にその箱を捧げるようにして、俄《にわか》におどろく。)
旅の男 おお、箱が軽く……。元のように軽くなりました。
李中行 箱が軽くなった……。
旅の男 この通りです。
(男は箱を軽々とささげて李に渡せば、李は恐る恐る受取りて、これも驚く。)
李中行 なるほど軽い、軽い。さっきはあんなに重かったものが、俄にこんなに軽くなるとは、どう云うわけだろうな。
旅の男 神のこころは私にも判りません。併し元の通りに軽くなったのは、私の仕合せです。(喜悦の色。)わたしはまだこの神に見放されないのです。これでようよう安心しました。(箱を押頂く。)では、夜の更けないうちに、もうお暇としましょう。
李中行 せめて今夜一晩は、泊まって行きなすっては何《ど》うだね。
旅の男 (かんがえて。)いや、折角ですが直ぐに行きましょう。御亭主にもおかみさんにも、御縁があったら又お目にかかります。
(男は会釈して箱を小脇にかかえ、しずかに表へ出て上のかたへ立去る。李も門口に出て見送る。李中二はつかつかと進み入る。)
中二 お父さん、阿母さん。今晩は……。
柳 おお、中二か。お父さんはさっきからお前を待っていたんだよ。
中二 店の方が忙がしかったもんですから、つい遅くなりました。
李中行 (引返して来る。)お前、大へんに遅かったではないか。おれ達はもう月を拝んでしまったのだ。
中二 今帰った人は誰です。
李中行 (笑ましげに。)あれはおまえの識らない人だ。三年|前《まえ》にここの家《うち》へ泊まったことがあって、その時の預け物を今夜うけ取りに来たのだ。
中二 お父さんの拝んでいたのは何です。
李中行 あれは江南でいう青蛙神だ。
中二 青蛙神……。
李中行 はは、判らないか。おまえ達はここらで育ったから、なんにも知るまいが、三本足の青い蝦蟆を祭るのだ。
中二 (笑う。)そんなものを祭って、どうするのです。
李中行 どうするものか。自分の願いが叶うように祈るのだ。
柳 それでお前さんは何を祈ったの。
李中行 大抵はおまえも察しているだろうが、本当のことは迂闊に云えない。他人に知られると、奇特が無いというからな。まあ、その奇特のあらわれるまでは、黙っていることにしようよ。
中二 (又笑う。)お父さんはまだそんなことを信じているんですか。
李中行 おまえ達のような若い者の知らないことだ。まあ、黙って見ていろ。
中二 いずれお父さんのことだから、慾の深いことを願ったんでしょう。
李中行 (少しぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として)え、何……。そんなわけでも無いのだ。
中二 (からかうように。)じゃあ、何を願ったんです。再び清朝の世になるようにとでも祈ったんですか。
李中行 馬鹿をいえ。
中二 それじゃあ百までも長生きをするように……。
李中行 ええ、黙っていろというのに……。今の若い奴等は兎かくに年寄りを馬鹿にしてならない。おれたちの若いときには、神さまの次に年寄りを尊敬したものだ。
中二 お父さん。私は神様よりも年寄りを尊敬しますよ。(笑いながら進みよる。)青蛙神を拝むくらいなら、先《ま》ずあなたを拝みますよ。
李中行 親にからかうな。(押退ける。)町へ出ていると、だんだんに生意気になっていけない。
柳 まあ、そんなことは何《ど》うでもいいから、早くお酒をお始めなさいよ。
李中行 (中二に。)お前は月を拝んだか。
中二 拝みました。
李中行 ほんとうに拝んだか。どうも怪しいぞ。お前はこのごろ嘘つきになったからな。
中二 まあ、そう叱ってばかりいないで、十五夜の御祝儀に一杯頂きましょう。(榻《とう》にかける。)時に妹はどうしたんです。
柳 高田さんを呼びに行ったのさ。
中二 高田さんが来るんですか。そりゃあ話し相手があって好いな。
李中行 おれでは話し相手にならないと云うのか。どこまでも親を馬鹿にする奴だ。(同じく榻にかける。)さあ、青蛙神に供えた酒だ。先ずおれから頂戴して、おまえにも飲ませてやる。
中二 わたしも蝦蟆のお流れ頂戴ですか。これは些《ち》っと嬉しくないな。
李中行 こいつ、まだそんなことを云っているのか。早く酌をしろ。
中二 はい、はい。
(中二は酌をすれば、李は飲み終って中二にさし、柳が酌をして遣る。こうして、父と子はむつまじく飲んでいると、下のかたより高田圭吉は阿香と連れ立ちて出づ。)
阿香 (内に入る。)唯今……。あら、兄さんも来たの。
高田 又お邪魔に出ました。
中二 やあ、いらっしゃい。さあ、こちらへ……。
柳 さあ、おかけなさい。(榻をすすめる。)
中二 (打解けて。)高田さんもお忙がしいんですか。
高田 今のところはそうでも無いんですが、五六日すると夜業が始まると云いますから、又ちっと忙がしくなる
前へ
次へ
全18ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング