ると迷惑そうに答えた。それはこの出来事があってから四月ほどの後のことで、中間の伊平は無事に奉公していた。彼は見るからに実体《じってい》な男であった。
その西瓜を作り出した小原の家については、筆者はなんにも知らなかったので、それを再び稲城に聞きただすと、八太郎も考えながら答えた。
「近所でありながら拙者もよくは存じません。しかし何やら悪い噂のある屋敷だそうでござる。」
それがどんな噂であるかは、かれも明らかに説明しなかったそうである。筆者も押し返しては詮議しなかったらしく、原文の記事はそれで終っていた。
三
「はは、君の怪談趣味も久しいものだ。」と、倉沢は八畳の座敷の縁側に腰かけて、団扇を片手に笑いながら言った。
親類の葬式もきのうで済んだので、彼は朝からわたしの座敷へ遊びに来て、このあいだの随筆のなかに何か面白い記事はなかったかと訊いたので、わたしはかの「稲城家の怪事」の一件を話して聞かせると、彼は忽ちそれを一笑に付してしまったのである。
暦の上では、きょうが立秋というのであるが、三日ほど降りつづいて晴れた後は、さらにカンカン天気が毎日つづいて、日向《ひなた》へ出たらば焦げてしまいそうな暑さである。それでもここの庭には大木が茂っているので、風通しは少し悪いが、暑さに苦しむようなことはない。わたしも縁側に蒲蓙《がまござ》を敷いて、倉沢と向い合っていたが、今や自分が熱心に話して聞かせた怪談を、頭から問題にしないように蹴散らされてしまうと、なんだか一種の不平を感じないわけにもいかなかった。
「君はただ笑っているけれども、考えると不思議じゃないか。女の生首が中間ひとりの眼にみえたというならば格別、辻番の三人にも見え、稲城の家の細君にも見えたというのだから、どうもおかしいよ。」
「おかしくないね。」
「じゃあ、君にその説明がつくのかね。」
「勿論さ。」と、倉沢は澄ましていた。
「うむ、おもしろい。聞かしてもらおう。」と、わたしは詰問するように訊いた。
「迷信家の蒙《もう》をひらいてやるかな。」と、彼はまた笑った。「君が頻《しき》りに問題にしているのは、その西瓜が大勢の眼に生首とみえたということだろう。もしそれが中間ひとりの眼に見えたのならば、錯覚とか幻覚とかいうことで、君も承認するのだろう。」
「だからさ。今も言う通り、それが中間ひとりの眼で見たのでないから……。」
「ひとりでも大勢でも同じことだよ。君は『群衆妄覚』ということを知らないのか。群衆心理を認めながら、群衆妄覚を認めないということがあるものか。僕はその事件をこう解釈するね。まあ、聴きたまえ。その中間は江戸馴れない田舎者だというから、何となくその様子がおかしくって、挙動不審にも見えたのだろう。おまけにその抱えている品が西瓜ときているので、辻番の奴等はもしや首ではないかと思ったのだろう。いや、三人の辻番のうちで、その一人は一途《いちず》に首だと思い込んでしまったに相違ない。そこで、彼の眼には、中間のかかえている風呂敷から生血がしたたっているように見えたのだ。西瓜をつつんで来たのだから、その風呂敷はぬれてでもいたのかも知れない。なにしろ怪しく見えたので、呼びとめて詮議をうけることになって、その風呂敷をあけると、生首がみえた。――その男には生首のように見えたのだ。あッ、首だというと、他の二人――これももしや首ではないかと内々疑っていたのであるから、一人が首だというのを聞かされると、一種の暗示を受けたような形で、これも首のように見えてしまった。それがいわゆる群衆妄覚だ。こうなると、もう仕方がない。三人の侍が首だ首だと騒ぎ立てると、田舎生れの正直者の中間は面食らって、異常の恐怖と狼狽とのために、これも妄覚の仲間入りをしてしまって、その西瓜が生首のように見えたのだ。それだから彼等がだんだんに落ち着いて、もう一度あらためて見ることになると、西瓜は依然たる西瓜で、だれの眼にも人間の首とは見えなくなったというわけさ。こう考えれば、別に不思議はあるまい。」
「なるほど辻番所の一件は、まずそれで一応の解釈が付くとして、その中間が自分の家へ帰った時にも再び西瓜が首になったというじゃあないか。主人の細君がなんにも知らずに風呂敷をあけて見たらば、やっぱり女の首が出たというのはどういうわけだろう。」
「その随筆には、細君がなんにも知らずにあけたように書いてあるが、おそらく事実はそうではあるまい。その風呂敷をあける前に、中間はまず辻番所の一件を報告したのだろうと思う。武家の女房といっても細君は女だ。そんな馬鹿なことがあるものかと言いながらも、内心一種の不安をいだきながらあけて見たに相違ない。その時はもう日が暮れている。行燈の灯のよく届かない縁先のうす暗いところで、怖々のぞいて見たのだから
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