世界怪談名作集
幽霊の移転
ストックトン Francis Richard Stockton
岡本綺堂訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甚《はなは》だ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)素敵|滅法界《めっぽうかい》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うんざり[#「うんざり」に傍点]した。
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ジョン・ヒンクマン氏の田園住宅は、いろいろの理由から僕にとっては甚《はなは》だ愉快な場所で、やや無遠慮ではあるが、まことに居心地《いごこち》のよい接待ぶりの寓居《ぐうきょ》であった。庭には綺麗に刈り込んだ芝原と、塔のように突っ立った槲《かしわ》や楡《にれ》の木があって、ほかにも所どころに木立ちが茂っていた。家から遠くないところに小さい流れがあって、そこには皮付きの粗末な橋が架けてあった。
ここらには花もあれば果物もあり、愉快な人たちも住んでいて、将棋、玉突き、騎馬、散歩、魚釣りなどの遊戯機関もそなわっていた。それらはもちろん、大いに人を惹《ひ》くの力はあったが、単にそれだけのことでは、そこに長居をする気にはなれない。僕は鱒《ます》の捕れる時節に招待されたのであるが、まず初夏の時節をよしとして訪問したのである。草は乾いて、日光はさのみ暑からず、そよそよと風が吹く。その時、わがマデライン嬢とともに、枝の茂った楡の下蔭をそぞろに歩み、木立のあいだをしずかに縫ってゆくのであった。
僕はわがマデライン嬢といったが、実のところ、彼女はまだ僕のものではないのである。彼女はその身を僕に捧げたというわけでもなく、僕のほうからもまだなんとも言い出したのではなかったが、自分が今後この世に生きながらえてゆくには、どうしても彼女をわがものにしなければならないと考えているので、自分の腹のうちだけでは、彼女をわがマデラインと呼んでいるのであった。自分の考えていることを早く彼女の前に告白してしまえば、こんな独りぎめなどをしている必要はないのであるが、さてそれが非常にむずかしい事件であった。
それはすべての恋する人が恐れるように、およそ恋愛の成るか成らぬかの間にまた楽しい時代があるのであるから、にわかにそれを突破して終末に近づき、わが愛情の目的物との交通または結合を手早く片付けてしまうのを恐れるばかりでなく、僕は主人のジョン・ヒンクマン氏を大いに恐れているがためであった。かの紳士は僕のよい友達ではあるが、彼にたいしておまえの姪《めい》をくれと言い出すのは、僕以上の大胆な男でなければ出来ないことであった。彼女は主としてこの家内いっさいのことを切り廻している上に、ヒンクマン氏がしばしば語るところによれば、氏は彼女を晩年の杖はしらとも頼んでいるのであった。この問題について、マデライン嬢が承諾をあたえる見込みがあるなら断然それを切り出すだけの勇気を生じたでもあろうが、前にもいう通りの次第で、僕は一度も彼女にそれを打ち明けたことはなく、ただそれについて、昼も夜も――ことに夜は絶えず思い明かしているだけのことであった。
ある夜、僕は自分の寝室にあてられた広びろしい一室の、大きいベッドの上に身を横たえながら、まだ眠りもやらずにいると、この室内の一部へ映《さ》し込んできた新しい月のぼんやりした光りによって、主人のヒンクマン氏がドアに近い大きい椅子に沿うて立っているのを見た。
僕は非常に驚いたのである。それには二つの理由がある。第一、主人はいまだかつて僕の部屋へ来たことはないのである。第二、彼はけさ外出して、幾日間は帰宅しないはずである。それがために、僕は今夜マデライン嬢とあいたずさえて、月を見ながら廊下に久しく出ていることが出来たのであった。今ここにあらわれた人の姿は、いつもの着物を着ているヒンクマン氏に相違なかったが、ただその姿のなんとなく朦朧《もうろう》たるところがたしかに幽霊であることを思わせた。
善良なる老人は途中で殺されたのであろうか。そうして、彼の魂魄《こんぱく》がその事実を僕に告げんとして帰ったのであろうか。さらにまた、彼の愛する――の保護を僕に頼みに来たのであろうか。こう考えると、僕の胸はにわかにおどった。
その瞬間に、かの幽霊のようなものは話しかけた。
「あなたはヒンクマン氏が今夜帰るかどうだか、ご承知ですか」
彼は心配そうな様子である。この場合、うわべに落ち着きを見せなければならないと思いながら、僕は答えた。
「帰りますまい」
「やれ、ありがたい」と、彼は自分の立っていたところの椅子に倚《よ》りながら言った。「ここの家《うち》に二年半も住んでいるあいだ、あの人はひと晩も家《うち》をあけたことはなかったのです。これで私がどんなに助かるか、あなたにはとても想像がつきますまいよ」
こう言いながら、彼は足をのばして背中を椅子へ寄せかけた。その姿かたちは以前よりも濃くなって、着物の色もはっきりと浮かんできて、心配そうであった彼の容貌も救われたように満足の色をみせた。
「二年半……」と、僕は叫んだ。「君の言うことは分からないな」
「わたしがここへ来てから、たしかにそれほどの長さになるのです」と、幽霊は言った。「なにしろ私のは普通の場合と違うのですからな。それについて少しお断わりをする前に、もう一度おたずね申しておきたいのはヒンクマン氏のことですが、あの人は今夜たしかに帰りませんか」
「僕の言うことになんでも嘘はない」と、僕は答えた。「ヒンクマン氏はきょう、二百マイルも遠いブリストルへいったのだ」
「では、続けてお話をしましょう」と、幽霊は言った。「わたしは自分の話を聴いてくれる人を見つけたのが何より嬉しいのです。しかしヒンクマン氏がここへはいって来て、わたしを取っつかまえるということになると、わたしは驚いて途方《とほう》に暮れてしまうのです」
そんな話を聞かされて、僕はひどく面喰らってしまった。
「すべてが非常におかしな話だな。いったい、君はヒンクマン氏の幽霊かね」
これは大胆な質問であったが、僕の心のうちには恐怖などをいだくような余地がないほどに、他の感情がいっぱいに満ちていたのであった。
「そうです。わたしはヒンクマン氏の幽霊です」と、相手は答えた。「しかし私にはその権利がないのです。そこで、わたしは常に不安をいだき、またあの人を恐れているのです。それはまったく前例のないような不思議な話で……。今から二年半以前に、ジョン・ヒンクマンという人は、大病に罹《か》かってこの部屋に寝ていたのですが、一時は気が遠くなって、もう本当に死んだのだろうと思われたのです。その報告があまり軽率《けいそつ》であったために、彼はすでに死んだものと認められて、わたしがその幽霊になることに決められたのです。さていよいよその幽霊となった時、あの老人は息を吹きかえして、それからだんだんに回復して、不思議に元のからだになったと分かったので、その時のわたしの驚きと怖れはどんなであったか。まあ、察してください。そうなると、私の立場は非常に入り組んだ困難なものになりました。ふたたび元の無形体に立ちかえる力もなく、さりとて生きている人の幽霊になり済ます権利もないというわけです。わたしの友達は、まあそのままに我慢していろ、ヒンクマン氏も老人のことであるから長いことはあるまい。彼が今度死ねば、おまえの地位を確保することが出来るのだから、それまで待っていろと忠告してくれたのですが……」と、かれはだんだんに元気づいて話しつづけた。
「どうです、あの爺《じい》さん。今までよりも更に達者になってしまって、私のこの困難な状態がいつまで続くことやら見当がつかなくなりました。わたしは彼と出逢わないように、一日じゅう逃げ廻っているのですが、さりとてここの家を立ち去るわけにはいかず、また、あの老人がどこへでも私のあとをつけて来るように思われるので、実に困ります。まったく私はあの老人に祟《たた》られているのですな」
「なるほど、それは奇妙な状態に立ちいたったものだな」と、僕は言った。「しかし、君はなぜヒンクマン氏を恐れるのかね。あの人が君に危害を加えるということもあるまいが……」
「もちろん、危害を加えるというわけではありません」と、幽霊は言った。「しかし、あの人の実在するということが、わたしにとっては衝動《ショック》でもあり、恐怖《テロル》でもあるのです。あなたがもし私の場合であったらばどう感じられますか。まあ、想像してごらんなさい」
僕には所詮《しょせん》そんなことの想像のできるはずはなく、ただ身ぶるいするばかりであった。幽霊はまた言いつづけた。
「もし私が質《たち》のわるい幽霊であったらば、ヒンクマン氏より他の人の幽霊になったほうが、さらに愉快であると思うでしょう。あの老人は怒りっぽい人で、すこぶる巧妙な罵詈雑言《ばりぞうごん》を並べ立てる……あんな人にはこれまでめったに出逢ったことがありません。そこで、彼がわたしを見つけて、わたしがなぜここにいるか、また幾年ここにいるかということを発見したら……いや、きっと発見するに相違ありません……そこにどんな事件が出来《しゅったい》するか、わたしにもほとんど見当がつかないくらいです。わたしは彼の怒ったのを見たことがあります。なるほど、その人たちに対して危害を加えはしませんでしたが、その風雨《あらし》のすさまじいことは大変で、相手の者はみな彼の前に縮みあがってしまいました」
それがすべて事実であることは、僕も承知していた。ヒンクマン氏にこの癖がなければ、僕も彼の姪について進んで交渉することが出来るのであった。こう思うと、僕はこの不幸なる幽霊にむかって本当の同情を持つようにもなって来た。
「君は気の毒だ。君の立場はまったく困難だ。ひとりの人間が二人になったという話を僕も思い出した。そうして、彼が自分と同じ人間を見つけた時には、定めて非常に憤激するだろうということも想像されるよ」
「いや、それとこれとはまるで違います」と、幽霊は言った。「ひとりの人間が二人になって地上に住む……ドイツでいうドッペルゲンゲルのたぐいは、ちっとも違わない人間が二人あるのですから、もちろん、いろいろの面倒を生じるでしょうが、わたしの場合はまたそれとまるで相違しているのです。私はヒンクマン氏とここに同棲するのでなく、彼に代るべくここに控えているのですから、彼がそれを知った以上、どんなに怒るか知れますまい。あなたはそう思いませんか」
僕はすぐにうなずいた。
「それですから今日はあの人が出て行ったので、わたしも暫時《ざんじ》楽らくとしていられるというわけです」と、幽霊は語りつづけた。「そうして、あなたとこうして話すことのできる機会を得たのを、喜んでいるのです。わたしはたびたびこの部屋に来て、あなたの寝ているところを見ましたが、うっかり話しかけることが出来なかったのです。あなたが私と口をきいて、もしそれがヒンクマン氏に聞こえると、どうしてあなたが独り言をいっているのかとおもって、この部屋へうかがいに来る虞《おそ》れがありますから……」
「しかし、君の言うことは人に聞こえないのかね」と、僕は訊いた。
「聞こえません」と、相手は言った。「誰かが私の姿を見ることがあっても、誰もわたしの声を聞くことは出来ません。わたしの声は、わたしが話しかけている人だけに聞こえるので、ほかの人には聞こえません」
「それにしても、君はどうして僕のところへ話しに来たのかね」と、僕はまた訊いた。
「わたしも時どきには人と話してみたいのです。ことにあなたのように、自分の胸いっぱいに苦労があって、われわれのような者がお見舞い申しても驚く余地がないような人と話してみたかったのです。あなたも私に厚意を持ってくださるように、特におねがい申しておきます。なにしろヒンクマン氏に長生きをされると、わたしの位地《いち》ももう支え切れなくなりますから、現在大いに願っているのは、どこへか移転することです。それについて、あなたもお力を貸してくださるだろう
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