と思っているのです」
「移転……」と、僕は思わず大きい声を出した。「それはどういうわけだね」
「それはこうです」と、相手は言った。「わたしはこれから誰かの幽霊になりにゆくのです。そうして、ほんとうに死んでしまった人の幽霊になりたいのです」
「そんなことはわけはあるまい」と、わたしは言った。「そんな機会はしばしばあるだろうに……」
「どうして、どうして……」と、私の相手は口早に言った。「あなたはわれわれ仲間にも競合《せりあ》いのあることをご存じないのですな。どこかに一つ空《あ》きができて、私がそこへ出かけようとしても、その幽霊には俺がなるという申し込みがたくさんあって困るのです」
「そういうことになっているとは知らなかった」と、僕もそれに対して大いに興味を感じてきた。「そうすると、そこには規則正しい組織があるとか、あるいは先口から順じゅんにゆくというわけだね。まあ、早くいえば、理髪店へいった客が順じゅんに頭を刈ってもらうというような理屈で……」
「いや、どうして、それがそうはいかないので……。われわれの仲間には果てしもなく待たされている者があります。もしここにいい幽霊の株があるといえば、いつでも大変な競争が起こる。また、つまらない株であると、誰も振り向いても見ない。そういうわけですから、相当の空き株があると知ったら、大急ぎでそこへ乗り込んで、私が現在の窮境を逃がれる工夫をしなければなりません。それにはあなたが加勢してくださることが出来ると思います。もしなんどき、どこに幽霊の空き株ができるという見込みがあったら、まだ一般に知れ渡らないうちに、前もって私に知らせてください。あなたがちょっと報告してくだされば、わたしはすぐに移転の準備に取りかかります」
「それはどういう意味だね」と、僕は呶鳴《どな》った。「すると、君は僕に自殺でもしろというのか。さもなければ、君のために人殺しでもしろと言うのかね」
「いや、いや、そんなわけではありません」と、彼は陽気に笑った。「そこらには、たしかに多大の興味をもって注意されるべき恋人同士があります。そういう人たちが何かのことで意気銷沈したという場合には、まことにお誂《あつら》えむきの幽霊の株ができるのです。といっても、何もあなたに関《かか》わることではありません。ただ、わたしがこうしてお話をしたのはあなたひとりですから、もし私の役に立つようなことがあったらば、早速お知らせを願いたいというだけのことです。その代りに、わたしの方でもあなたの恋愛事件については、喜んでご助力をするつもりです」
「君は僕の恋愛事件を知っているらしいね」と、僕は言った。
「オー、イエス」と、彼は少しく口をあいて言った。「私はここにいるのですからね。それを知らないわけにはゆきませんよ」
マデライン嬢と僕との関係を幽霊に見張っていられて、二人が立ち木のあいだなどを愉快に散歩している時にも彼についていられるのかと思うと、それは気味のよくないことであった。とはいえ、彼は幽霊としてはすこぶる例外に属すべきもので、かれらの仲間に対して普通にわれわれがいだくような反感を持つことも出来なかった。
「もう行かなければなりません」と、幽霊は起《た》ちあがりながら言った。「明晩もどこかでお目にかかりましょう。そうして、あなたがわたしに加勢する……わたしがあなたに加勢する……この約束を忘れないでください」
この会見について何事をかマデライン嬢に話したものかどうかと、僕もいったんは迷ったが、またすぐに思い直して、この問題については沈黙を守らなければならないと覚《さと》った。もしこの家のうちに幽霊がいるなどということを知ったらば、彼女はおそらく即刻にここを立ち去ってしまうであろう。このことについてはなんにも言わないで、僕も挙動を慎んでいれば、彼女に疑われる気遣いはたしかにない。僕はヒンクマン氏が初めに言ったよりも、一日でもいいから遅く帰って来るようにと念じていた。そうすれば、僕は落ち着いてわれわれが将来の目的についてマデライン嬢に相談することが出来ると思っていたのであるが、今やそんな話をする機会がほんとうに与えられたとしても、それをどう利用していいか、僕にはその準備が整っていないのであった。もし何か言い出して、彼女にそれを拒絶されたらば、僕はいったいどうなるであろうか。
いずれにしても、僕が彼女にいっさいを打ち明けようとするならば、今がその時節であると思われた。マデライン嬢も僕の内心に浮かんでいる情緒を大抵は察しているべきはずであって、彼女自身も何とかそれを解決してしまいたいと望んでいるのも無理からぬことであろう。しかも、僕は暗闇のなかを無鉄砲に歩き出すようには感じていなかった。もし僕が汝《なんじ》を我《われ》にあたえよと申し出すことを、彼女も内《ない》ない待ち受けているならば、彼女はあらかじめそれを承諾しそうな気色を示すべきはずである。もしまた、そんな雅量を見せそうもないと認めたらば、僕はなんにも言わないで、いっさいをそのままに保留しておくほうがむしろ優《ま》しであろうと思った。
その晩、僕はマデライン嬢と共に、月の明かるい廊下に腰をかけていた。それは午後十時に近いころで、僕はいつでも夜食後には自分の感情の告白をなすべき準備行動を試みていたのである。僕は積極的にそれを実行しようとは思わない。適当のところで徐《じょ》じょに到達して、いよいよ前途に光明を認めたという時、ここに初めて真情を吐露《とろ》しようと考えていたのである。
彼女も自分の位地を諒解しているらしく見えた。少なくとも僕から見れば、僕ももうそろそろ打ち明けてもいいところまで近づいてきて、彼女もそれを望んでいるらしく想像された。なにしろ今は僕が一生涯における重大の危機で、いったんそれを口へ出したが最後、永久に幸福であるか、あるいは永久に悲惨であるかが決定するのである。しかも僕が黙っていれば、彼女は容易にそういう機会をあたえてくれないであろうと信じられる、いろいろの理由があった。
こうして、マデライン嬢と一緒に腰をかけて、少しばかり話などをしていながら、僕はこの重大事件についてはなはだ思い悩んでいる時、ふと見あげると、われわれより十二尺とは距《はな》れていないところに、かの幽霊の姿が見えた。
幽霊は廊下の欄干《てすり》に腰をおろして片足をあげ、柱に背中を寄せかけて片足をぶらりと垂れていた。僕はマデライン嬢と向かいあっているので、彼は彼女のうしろ、僕のほとんど前に現われているのであった。僕はそれを見て、ひどく驚いたような様子をしめしたに相違なかったが、幸いに彼女は庭の景色をながめていたので気がつかないらしかった。
幽霊は今夜どこかで僕に逢おうと言ったが、まさかにマデライン嬢と一緒にいるところへ出て来ようとは思わなかったのである。もしも彼女が自分の叔父の幽霊を見つけたとしたら、僕はなんと言ってその事情を説明していいか分からない。僕は別に声は立てなかったが、その困惑の様子を幽霊も明らかに認めたのである。
「ご心配なさることはありません」と、彼は言った。「私がここにいても、ご婦人に見つけられることはありません。また、わたしが直接にご婦人に話しかけなければ、何もきこえるはずはありません。もちろん、話しかけたりする気遣いもありません」
それを聞いて、僕も安心したような顔をしたろうと思われた。幽霊はつづけて言った。
「それですからお困りになることはありません。しかし、私の見るところでは、あなたの遣り口はどうも巧《うま》くないようですね。私ならば、もう猶予《ゆうよ》なしに言い出してしまいますがね。こんないい機会は二度とありませんぜ。躊躇《ちゅうちょ》していてはいけませんよ。私の鑑定では、相手の婦人もよろこんであなたの言うことに耳を傾けますよ。婦人のほうでも、ふだんからそうあれかしと待ちかまえているのですからね。あるじのヒンクマン氏は今度ぎりで当分どこへも出かけそうもありませんぜ。たしかにこの夏は出かけませんよ。もちろん、私があなたの立場にあれば、ヒンクマン氏がどこにいようとも、最初からその人の姪にラヴしたりなんぞはしませんがね。マデライン嬢にそんなことを申し込んだ奴があると知れたら、あの人は大立腹で、それは、それは、大変なことになりましょうよ」
それは僕も同感であった。
「まったくそれを思うと、実にやり切れない。彼のことを考えると……」と、僕は思わず大きい声を出した。
「え、誰のことを考えると……」と、マデライン嬢は急に向き直って訊いた。
いや、どうも飛んだことになった。幽霊の長ばなしはマデライン嬢の注意をひかなかったが、僕はわれを忘れて大きい声を出したので、それははっきりと彼女に聞こえてしまったのである。それに対して何とか早く説明しなければならないが、もちろん、その人が彼女の大事な叔父さんであるとは言われないので、僕は急に思いつきの名を言った。
「え、ヴィラー君のことですよ」
思いつきといっても、これは極めて正当の陳述であった。ヴィラー君というのは一個の紳士で、彼もマデライン嬢に対して大いに注目しているらしいので、僕はそれを考えるたびに、彼に対して忍ぶあたわざる不快を感じていたのであった。
「あなた、ヴィラーさんのことをそんなふうに言っては悪うござんすわ」と、彼女は言った。「あのかたは若いに似合わず、非常によく教育されて、物がよく分かって、へいぜいの態度も快活な人ですわ。あのかたはこの秋、立法官に選挙されたと言っていらっしゃるのですが、私も適任者だと思っていますのよ。あのかたならばきっとようござんすわ。言うべきことがあれば、どういう時にどう言うかということを、あのかたはちゃんとご存じですもの」
彼女は別に腹を立てたという様子も見せずに、極めておだやかに、極めて自然にそれを話した。もしマデライン嬢が僕に厚意を有するならば、僕が自分の競争者に対して不折り合いの態度を示したからといって、それについて悪感をいだかないはずである。彼女の言葉全体を案ずれば、僕にもたいてい分かるだけのヒントを得た。もしヴィラー君が僕の現在の地位にあれば、すぐに自分の思うことを言い出すに相違あるまいと思った。
「なるほど、あの人に対してそんな考えを持つのは悪いかもしれませんが……」と、僕は言った。「しかしどうも僕には我慢が出来ないのですよ」
彼女は僕を咎《とが》めようともせず、その後はいよいよ落ち着いているように見えた。しかし僕は、はなはだ苦しんだ。僕は自分の心のうちに絶えずヴィラー君のことを考えていないということを、ここで承認したくなかったからである。
「そんなふうに大きい声で言わないほうがいいでしょう」と、幽霊は言った。「そうでないと、あなた自身が困るようなことになりますよ。私はあなたのために、諸事好都合に運ぶことを望んでいるのです。そうすれば、あなたも進んで私を助けてくださるようになるでしょう。ことに私があなたのご助力をいたすような機会をつくれば……」
彼が僕を助けてくれるのは、この際ここを早く立ち去ってくれるに越したことはないと、僕は彼に話して聞かせたかったのである。若い女と恋をしようというのに、そばの欄干《てすり》には幽霊がいる――しかもその幽霊は僕の最も恐れている叔父の幽霊であることを考えると、場所も場所、時も時、僕はふるえあがらざるを得ないのである。ここで事件を進行させようとするのは、たとい不可能といわないまでも、すこぶる困難であるといわなければならない。しかも僕は自分のこころを相手の幽霊に覚《さと》らせるにとどまって、それを口へ出して言うわけにはゆかないのである。
幽霊はつづけて言った。
「あなたはたぶん、わたしの利益になるようなことをお聞き込みにならないのだろうと察しています。私もそうだと危《あや》ぶんでいたのです。しかし何かお話しくださるようなことがあるならば、あなたが一人になるまで待っていてもよろしいのです。私は今夜あなたの部屋へおたずね申してもよろしい。さもなければ、こ
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