の婦人の立ち去るまでここに待っていてもよろしいのですが……」
「ここに待っているには及ばない」と、僕は言った。「おまえになんにも言うようなことはないのだ」
マデライン嬢はおどろいて飛びあがった。その顔は赧《あか》くなって、その眼は燃えるように輝いた。
「ここに待っている……」と、彼女は叫んだ。「私が何を待っていると思っていらっしゃるの。わたしになんにも言うことはない……。まったくそうでしょう。わたしにお話しなさるようなことはなんにもないはずですもの」
「マデラインさん」と、僕は彼女のほうへ進み寄りながら呶鳴《どな》った。「まあ、わたしの言うことを聴いてください」
しかも彼女はもういってしまったのである。こうなると、僕にとっては世界の破滅である。僕は幽霊の方へあらあらしく振り向いた。
「こん畜生! 貴様はいっさいをぶちこわしてしまったのだ。貴様はおれの一生を暗闇《くらやみ》にしてしまったのだ。貴様がなければ……」
ここまで言って、僕の声は弱ってしまった。僕はもう言うことができなくなったのである。
「あなたは私をお責めなさるが、私が悪いのではありませんよ」と、幽霊は言った。「私はあなたを励まして、あなたを助けてあげようと思っていたのです。ところが、あなた自身が馬鹿なことをして、こんな失策《しっさく》を招いてしまったのです。しかし失望することはありません。こんな失策はまたどうにでも申しわけができます。まあ、気を強くお持ちなさい。さようなら」
彼は石鹸《しゃぼん》の泡の溶けるがごとくに、欄干から消え失せてしまった。
僕が思わず口走ったことを説明するのは、不可能であった。その晩はおそくまで起きていて、繰り返し繰り返してそのことを考え明かしたのち、僕は事実の真相をマデライン嬢に打ち明けないことに決心した。彼女の叔父の幽霊がここの家に取り憑《つ》いていることを彼女に知らせるよりも、自分が一生ひとりで苦しんでいるほうがましであると、僕は考えた。ヒンクマン氏は留守である。そこへ彼の幽霊が出たということになれば、彼女は叔父が死なないとは信じられまい。彼女も驚いて死ぬであろう。僕の胸にはいかなる手疵《てきず》をこうむってもいいから、このことはけっして彼女に打ち明けまいと思った。
次の日はあまり涼しくもなく、あまり暖かくもなく、よい日和《ひより》であった。そよ吹く風もやわらか
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