同時に、彼女もあたかも初めて現われてきたときのように、気の進まないような緩《ゆる》い歩調で、出てきたのである。コスモはふるえた。そうして、鏡から離れて振り返って見ると、彼女は疲れたような蒼ざめた顔をして、何か病気か、心配でもありそうな風情《ふぜい》である。コスモは倒れそうになって、とても前へは進めなかった。それでもじっと彼女の顔と姿を見つめていると、すべての喜びや悲しみを離れて、ただ胸がいっぱいになって、彼女と語りたい、自分の言うことを彼女が聞いてくれるか、ひと言でいいから返事を聴きたい。彼はもうたまらなくなって、かねて準備した仕事にあわてて取りかかったのである。
 線を引いた場所から注意ぶかく歩いて、線の中央に小さい火鉢を置き、そのなかの炭に火をつけて、それが燃えている間、彼は窓をあけて火鉢のそばに腰をおろしていたのであった。それは蒸し暑い夕方で、絶えず雷鳴がとどろいて、大空が重苦しいように下界の空気をおしつけている日であった。なんとなく紫色をした空気がただよっていて、町の煙霧《えんむ》もそれを吹き消すことが出来ないような、遠い郊外の匂いが窓から吹いて来た。間もなく炭がさかんにおこっ
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