るのですか」
 コスモは死のように静かな、しかし感情に激してよくは分からないような声で言った。
「それは分かりません。私がこの魔法の鏡のために苦しんでいるあいだは何とも申されません。それでもあなたの胸にいだかれて、死ぬまで泣くことが出来たら、どんなに嬉しいかしれません。あなたが私を愛していてくださることは知っております。いえ、それも分からないのですけれど……。それでも……」
 ひざまずいていたコスモは起ち上がった。
「わたしはあなたを愛しています。どうしてだか、前から愛しています。そのほかにはなんにも考えておりません」
 彼は彼女の手を握ると、彼女は手を引いた。
「いけません。わたしはあなたの手のうちにあるのです。それですからいけません……」
 今度は彼女がコスモの前にひざまずいて泣き出した。
「もしあなたが私を愛してくださるならば、わたしを自由の身にして下さい。あなたからも自由にしてください。この鏡を毀《こわ》してください」
「そうしてからも、あなたに逢うことが出来ますか」
「それは言えません。あなたをおだまし申しませんけれど……。もう二度とお目にかからないかもしれません」
 するどい驚きがコスモの胸に起こった。いま彼女は彼の手中にある。彼女はコスモを嫌ってもいない。そうして、逢いたい時はいつでも逢えるのであるが、鏡を毀すということは、彼の真実の生活を破壊することにもなり、彼の宇宙からただひとつの光明を追放することにもなるのである。愛の楽園を見ることの出来るこの一つの窓を失ってしまえば、全世界は彼にとって牢獄に過ぎない。愛に対して不純のようではあるが、彼はその実行をためらったのであった。
 彼女は悲しみながら起ちあがった。
「ああ、あの人は私を愛してはくださらない。私は感じているのに、あの人は愛してくださらない。私はもう自由になれなくともいいから、あの人を愛します」
「もう待ってはいられない」
 コスモはこう叫んで、大きな剣の立っている部屋の隅に飛んでいった。
 もう暗くなっていた。部屋のうちには燃えさしの火が赤く輝いていた。彼は剣の鞘《さや》を手に持って鏡の前に立ったのである。彼が剣の柄《つか》がしらで鏡に一撃をあたえると、刀身は鞘から半分ほど抜け出して、柄がしらは鏡の上の壁を打った。このとき怖ろしい雷鳴が部屋のなかに発して、コスモは二度と鏡を打つことが出来ずに
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