)彼女はこなかった。
 コスモはもう破滅の状態にあった。彼女との恋について、自分の敵があるという考えが浮かんでからは、一瞬時も心を落ちつけていることは出来なかった。今までよりいや増して、彼は彼女に眼《ま》のあたり逢いたく思った。彼は自分に言い聞かせた。もし、自分の恋が失敗であるならばそれでいい。その時はもうこのプラーグの町を去るだけである。そうして、何かの仕事に絶えず働いて、いっさいの苦《く》を忘れたい。それがすべて悲しみを受けた者のゆくべき道である。
 そう思いながらも、彼は次の夜も言いがたい焦燥《しょうそう》の胸をいだいて、彼女のくるのを待っていた。しかし、彼女はこなかった。

       四

 今はコスモも煩《わずら》う人となった。その恋に破れた顔色を見て、仲間の学生たちがからかうので、彼はついに教授に出ることをやめて、契約もまた破れてしまった。彼はもう何もいらないと思った。偉大なる太陽の輝いている空も――心のない、ただ燃えている砂漠であった。町を歩いている男も女も、ただあやつりの人形を見るようで、なんの興味もなかった。彼にとってすべてのものは、ただ写真のすりガラスにうつる絶えざる現象の変化としか見えなかった。ただ彼女のみがコスモの宇宙であり、その生命であり、人間としての幸福であったのである。
 六日もつづいて彼女は出てこなかった。コスモは疾《と》うに決心して、その決心を実行するはずであったが、彼はただ熱情に捉《とら》えられて頭を悩み苦しめていたのである。彼は理論的に考えた。彼女の姿が鏡のうちにうつるというのは、鏡に何かの魔力が結びつけられているに相違ない。そこで彼は、今までこういう怪奇なことに関して研究したものについて、あらためて考え直すことに決心した。彼は独りで言った。
「もし、悪魔が彼女を鏡のうちに現出させることが出来るならば、自分が知っている悪魔の話のように、鏡のうちに彼女をうつしたばかりでなく、さらに生きた姿のままを直接に自分の前に現出させてみせそうなものだ。もしも彼女が自分の前に現出して、僕が彼女に対して何か悪いことをしたとしても、それは愛がさせる業《わざ》だ。僕は彼女の口から、ほんとうのことさえ聞けばいいのだ」
 コスモは、彼女はこの地上の女に違いはない。地上の女が何かの理由でその影をこの魔鏡のなかにうつしているに相違ないと信じていた。
 彼
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