スはあたかも祈祷でもするように両腕を差し出して、更におごそかに叫んだ。
「幸いあれ。おお、神聖にして且つ偉大なる人生よ。」
ラザルスは沈黙を続けていると、皇帝はますます高潮して来る厳粛の感に堪えないように、なおも言葉をつづけた。
「死の牙《きば》から辛うじて救われた、哀れなる人間よ。ローマ人はお前がここに留まることを欲しない。お前は人生に疲労と嫌悪とを吹き込むものだ。お前は田畑の蛆虫《うじむし》のように、歓喜に満ちた穂をいぶかしそうに見詰めながら、絶望と苦悩のよだれを垂らしているのだ。お前の真理はあたかも夜の刺客の手に握られている錆びた剣《つるぎ》のようなもので、お前はその剣のために刺客の罪名のもとに死刑に処せらるべきである。しかしその前におまえの眼をわしに覗かせてくれ。おそらくお前の眼を怖れるのは臆病者ばかりで、勇者の胸には却って争闘と勝利に対する渇仰を呼び起こさせるであろう。その時にはお前は恩賞にあずかって、死刑は赦されるであろう。さあ、わしを見ろ。ラザルス。」
アウガスタスも最初は、友達が自分を見ているのかと思った程に、ラザルスの眼は実に柔かで、温良で、たましいを蕩《とろ》かすようにも感じられたのである。その眼には恐怖など宿っていないのみならず、却ってそこに現われているこころよい安息と博愛とが、皇帝には温和な主婦のごとく、慈愛ふかい姉のごとく母のごとくにさえ感じられた。しかもその眼の力はだんだんに強く迫って来て、嫌がる接吻をむさぼり求めるようなその眼は皇帝の息をふさぎ、その柔かな肉体の表面には鉄の骨があらわれ、その無慈悲な環が刻一刻と締め付けて来て、眼にみえない鈍《にぶ》い冷たい牙が皇帝の胸に触れると、ぬるぬると心臓に喰い入って行った。
「ああ、苦しい。しかしわしを見詰めていろ、ラザルス。見詰めていろ。」と、神聖なるアウガスタスは蒼ざめながら言った。
ラザルスのその眼は、あたかも永遠にあかずの重い扉が徐々にあいて来て、その隙き間から少しずつ永劫の恐怖を吐き出しているようでもあった。二つの影のように、果てしもない空間と底知れぬ暗黒とが現われて、太陽を消し、足もとから大地を奪って、頭の上からは天空を消してしまった。これほどに冷え切って、心を痛くさせるものが又とあるであろうか。
「もっと見ろ。もっと見ろ、ラザルス。」と、皇帝はよろめきながら命じた。
時が静か
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