にとどまって、すべてのものが恐ろしくも終りに近づいて来た。皇帝の座は真っ逆さまになったと思う間もなく崩れ落ちて、アウガスタスの姿は玉座と共に消え失せた。――音もなくローマは破壊されて、その跡には新しい都が建設され、それもまた空間に呑み込まれてしまった。まぼろしの巨人のように、都市も、国家も、国々もみな倒れて、空虚なる闇のうちに消えると、無限の黒い胃嚢が平気でそれらを呑み込んでしまった。
「止めてくれ。」と、皇帝は命令した。
 彼の声にはすでに感情を失った響きがあり、その両手も力なく垂れ、突撃的なる暗黒と向う見ずに戦っているうちに、その赫々たる両眼は何物も見えなくなったのである。
「ラザルス。お前はわしの命を奪った。」と、皇帝は気力のない声で言った。
 この失望の言葉が彼自身を救った。皇帝は自分が庇護しなければならない人民のことを思い浮かべると、気力を失いかけた心臓に鋭い痛みをおぼえて、それがためにやや意識を取り戻した。
「人民らも死を宣告されている。」と、彼はおぼろげに考えた。無限の暗黒の恐ろしい影――それを思うと恐怖がますます彼に押し掛かって来た。
「沸き立っている生き血を持ち、悲哀と共に偉大なる歓喜を知る心を持つ、破れ易い船のような人民――」と、皇帝は心のうちで叫んだ時、心細さが彼の胸を貫いた。
 かくの如く、生と死との両極のあいだにあって反省し、動揺しているうちに、皇帝は次第に生命を回復して来ると、苦痛と歓喜との人生のうちに、空虚なる暗黒と無限の恐怖を防ぐだけの力のある楯のあることに気が付いた。
「ラザルス。お前はわしを殺さなかったな。しかしわしはお前を殺してやろう。去れ。」と、皇帝は断乎として言った。
 その夕方、神聖なる皇帝アウガスタスは、いつもになく愉快に食事を取った。しかも時々に手を突っ張ったままで、火の如くに輝いている眼がどんよりと陰って来た。それは彼の足もとに恐怖の波の動くのを感じたからであった。打ち負かされたが、しかも破滅することなく、永遠に時の来たるのを待っている「恐怖」は、皇帝の一生を通じて一つの黒い影――すなわち死のごとくに彼のそばに立っていて、昼間は人生の喜怒哀楽に打ち負かされて姿を見せなかったが、夜になると常に現われた。
 次の日、絞首役人は熱鉄でラザルスの両眼をえぐり取って、彼を故国へ追い帰した。神聖なる皇帝アウガスタスも、さすがにラ
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