いる前でその戸をしめた時に、また半時間のうちに必ずあくと言った言葉を想い起こしたので、その窓がどうしてあいたのかを調べてみようと決心した。真鍮の金具類は非常に頑丈に出来ているものであるから、ちっとのことでは動くはずがないので、螺旋《ねじ》が動揺したぐらいのことで締め金がはずれたとは、僕にはどうも信じられなかった。僕は窓の厚いガラス戸から、窓の下で泡立っている白と灰色の海のうねりをじっと覗いていた。なんでも十五分間ぐらいもそこにそうして立っていたであろう。
突然うしろの寝台の一つで、はっきりと何物か動いている音がしたので、僕ははっ[#「はっ」に傍点]としてうしろを振り返った。むろんに暗やみのことで何ひとつ見えなかったのである。僕は非常にかすかな唸《うな》り声を聞き付けたので、飛びかかって上の寝台のカーテンをあけるが早いか、そこに誰かいるかどうかと手を突っ込んでみた。すると、確かに手応《てごた》えがあった。
今でも僕は、あの両手を突っ込んだときの感じは、まるで湿《しめ》った穴蔵へ手を突っ込んだように冷やりとしたのを覚えている。カーテンのうしろから、恐ろしくよどんだ海水の臭いのする風がまたさっ[#「さっ」に傍点]と吹いてきた。そのとたんに、僕は何か男の腕のような、すべすべとした、濡れて氷のように冷たい物をつかんだかと思うと、その怪物は僕の方へ猛烈な勢いで飛びかかってきた。ねばねばした、重い、濡れた泥のかたまりのような怪物は、超人のごとき力を有していたので、僕は部屋を横切ってたじたじとなると、突然に入り口の扉がさっ[#「さっ」に傍点]とあいて、その怪物は廊下へ飛び出した。
僕は恐怖心などを起こす余裕もなく、すぐに気を取り直して同じく部屋を飛び出して、無我夢中に彼を追撃したが、とても追いつくことは出来なかった。十ヤードもさきに、たしかに薄黒い影がぼんやりと火のともっている廊下に動いているのを目撃したが、その速さは、あたかも闇夜に馬車のランプの光りを受けた駿馬《しゅんめ》の影のようであった。その影は消えて、僕のからだは廊下の明かり窓の手欄《てすり》に支えられているのに気がついた時、初めて僕はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として髪が逆立つと同時に、冷や汗が顔に流れるのを感じた。といって、僕は少しもそれを恥辱とは思わない。だれでも極度の恐怖に打たれれば、冷や汗や髪の逆立つぐらいは当然ではないか。
それでもなお、僕は自分の感覚を疑ったので、つとめて心を落ち着かせて、これは下《くだ》らないことだとも思った。薬味付きのパンを食ったのが腹に溜《たま》っていたので、悪い夢を見たのだろうと思いながら、自分の部屋へ引っ返したが、からだが痛むので、歩くのが容易でなかった。部屋じゅうはゆうべ僕が目をさました時と同じように、よどんだ海水の臭いで息が詰まりそうであった。僕は勇気を鼓《こ》して内へはいると、手探りで旅行鞄のなかから蝋燭の箱を取り出した。そうして、消燈されたあとに読書したいと思うときの用意に持っている、汽車用の手燭に火をつけると、窓がまたあいているので、僕はかつて経験したこともない、また二度と経験したくもない、うずくような、なんともいえない恐怖に襲われた。僕は手燭を持って、たぶん海水たびしょ濡れになっているだろうと思いながら、上の寝台を調べた。
しかし僕は失望した。実のところ、何もかも忌《いや》な夢であった昨夜の事件以来、ロバートは寝床を整える勇気はあるまいと想像していたのであったが、案に相違して寝床はきちんと整頓してあるばかりか、非常に潮くさくはあったが、夜具はまるで骨のように乾いていた。僕は出来るだけいっぱいカーテンを引いて、細心の注意を払って隈《くま》なくその中をあらためると、寝床はまったく乾いていた。しかも窓はまたあいているではないか。僕はなんということなしに恐怖の観念に駆《か》られながら窓をしめて、鍵をかけて、その上に僕の頑丈なステッキを真鍮の環の中へ通して、丈夫な金物が曲がるほどにうん[#「うん」に傍点]と捻《ね》じた。それからその手燭の鉤《かぎ》を、自分の寝台の頭のところに垂れている赤い天鵞絨《ビロード》[#「天鵞絨」は底本では「天鷲絨」]へ引っかけておいて、気を鎮めるために寝床の上に坐った。僕はひと晩じゅうこうして坐っていたが、気を落ち着けるどころの騒ぎではなかった。しかし、窓はさすがにもうあかなかった。僕もまた神わざでない限りは、もう二度とあく気づかいはないと信じていた。
ようように夜があけたので、僕はゆうべ起こった出来事を考えながら、ゆっくりと着物を着かえた。非常によい天気であったので、僕は甲板へ出て、いい心持ちで清らかな朝の日光にひたりながら、僕の部屋の腐ったような臭いとはまるで違った、薫りの高い青海原《あおうなばら》のそよ風を胸いっぱいに吸った。僕は知らず識らずのうちに船尾の船医の部屋の方へむかってゆくと、船医はすでに船尾の甲板に立って、パイプをくわえながら前の日とまったく同じように朝の空気を吸っていた。
「お早う」と、彼はいち早くこう言うと、明らかに好奇心をもって僕の顔を見守っていた。
「先生、まったくあなたのおっしゃった通り、たしかにあの部屋には何かが憑《つ》いていますよ」と、僕は言った。
「どうです、決心をお変えになったでしょう」と、船医はむしろ勝ち誇ったような顔をして僕に答えた。「ゆうべはひどい目にお逢いでしたろう。ひとつ興奮飲料をさし上げましょうか、素敵なやつを持っていますから」
「いや、結構です。しかし、まずあなたに、ゆうべ起こったことをお話し申したいと思うのですが……」と、僕は大きい声で言った。
それから僕は出来るだけ詳しくゆうべの出来事の報告をはじめた。むろん、僕はこの年になるまで、あんな恐ろしい思いをした経験はなかったということをも、つけ加えるのを忘れなかった。特に僕は窓に起こった現象を詳細に話した。実際、かりに他のことは一つの幻影であったとしても、この窓に起こった現象だけは誰がなんといっても、僕は明らかに証拠立てることの出来る奇怪の事実であった。現に僕は二度までも窓の戸をしめ、しかも二度目には自分のステッキで螺旋鍵《ねじかぎ》を固くねじて、真鍮の金具を曲げてしまったという点だけでも、僕は大いにこの不可思議を主張し得るつもりであった。
「あなたは、私が好んであなたのお話を疑うとお思いのようですね」と、船医は僕があまりに窓のことを詳しく話すので微笑《ほほえ》みながら言った。「私はちっとも疑いませんよ。あなたの携帯品を持っていらっしゃい。二人で私の部屋を半分ずつ使いましょう」
「それよりもどうです。わたしの船室においでなすって、二人でひと晩を過ごしてみませんか。そうして、この事件を根底まで探るのに、お力添えが願えませんでしょうか」
「そんな根底まで探ろうなどとこころみると、あべこべに根底へ沈んでしまいますよ」と、船医は答えた。
「というと……」
「海の底です。わたしはこの船をおりようかと思っているのです。実際、あんまり愉快ではありませんからな」
「では、あなたはこの根底を探ろうとする私に、ご援助くださらないのですか」
「どうも私はごめんですな」と、船医は口早に言った。「わたしは自分を冷静にしていなければならない立場にあるもので、化け物や怪物をなぶり廻してはいられませんよ」
「あなたは化け物の仕業《しわざ》だと本当に信じていられるのですか」と、僕はやや軽蔑的な口ぶりで聞きただした。
こうは言ったものの、ゆうべ自分の心に起こったあの超自然的な恐怖観念を僕はふと思い出したのである。船医は急に僕の方へ向き直った。
「あなたはこれらの出来事を化け物の仕業《しわざ》でないという、たしかな説明がお出来になりますか」と、彼は反駁《はんばく》してきた。「むろん、お出来にはなりますまい。よろしい。それだからあなたはたしかな説明を得ようというのだとおっしゃるのでしょう。しかし、あなたには得られますまい。その理由は簡単です。化け物の仕業という以外には説明の仕様《しよう》がないからです」
「あなたは科学者ではありませんか。そのあなたが私にこの出来事の解釈がお出来にならんと言うのですか」と、今度は僕が一矢をむくいた。
「いや、出来ます」と、船医は言葉に力を入れて言った。「しかし他の解釈が出来るくらいならば、私だって何も化け物の仕業だなどとは言いません」
僕はもうひと晩でもあの百五号の船室にたった一人でいるのは嫌であったが、それでも、どうかしてこの心にかかる事件の解決をつけようと決心した。おそらく世界じゅうのどこを捜《さが》しても、あんな心持ちの悪いふた晩を過ごしたのち、なおたった一人であの部屋に寝ようという人がたくさんあるはずはない。しかも僕は自分と一緒に寝ずの番をしようという相棒を得られずとも、ひとりでそれを断行しようと意を決したのである。
船医は明らかに、こういう実験には興味がなさそうであった。彼は自分は医者であるから、船中で起こったいかなる事件にでも、常に冷静でなければならないと言っていた。彼は何事によらず、判断に迷うということが出来ないのである。おそらくこの事件についても、彼の判断は正しいかもしれないが、彼が何事にも冷静でなければならないという職務上の警戒は、その性癖から生じたのではないかと、僕には思われた。それから、僕が誰か他に力を藉《か》してくれる人はあるまいかとたずねると、船医は、この船のなかに僕の探究に参加しようという人間は一人もないと答えたので、ふた言三言話した後《のち》に彼と別れた。
それから少し後に、僕は船長に逢った。話をした上で、もし自分と一緒にあの部屋で寝ずの番をする勇者がなかったらば、自分ひとりで決行するつもりであるから、一夜じゅうそこに灯をつけておくことを許可してもらいたいと申し込むと、「まあ、お待ちなさい」と、船長は言った。
「私の考えを、あなたにお話し申しましょう。実は私もあなたと一緒に寝ずの番をして、どういうことが起こるかを調べてみようと思うのです。私はきっとわれわれのあいだに何事をか発見するだろうと確信しています。ひょっとすると、この船中にこっそりと潜《ひそ》んでいて、船客を嚇《おど》かしておいて何かの物品を盗もうとする奴がいないとも限りません。したがって、あの寝台の構造のうちに、怪しい機関《からくり》が仕掛けてあるかもしれませんからね」
船長が僕と一緒に寝ずの番をするという申しいでがなかったらば、彼のいう盗人《ぬすびと》一件などはむろん一笑に付《ふ》してしまったのであるが、なにしろ船長の申しいでが非常に嬉しかったので、それでは船の大工を連れて行って、部屋を調べさせましょうと、僕は自分から言い出した。そこで、船長はすぐに大工を呼び寄せ、僕の部屋を隈なく調べるように命じて、僕らも共に百五号の船室へ行った。
僕らは上の寝台の夜具をみんな引っ張り出して、どこかに取り外しの出来るようになっている板か、あるいはあけたての出来るような鏡板でもありはしまいかと、寝台はもちろん、家具類や床板をたたいてみたり、下の寝台の金具をはずしたりして、もう部屋のなかに調べない所はないというまでに調査したが、結局なんの異状もないので、またもとの通りに直しておいた。僕らがその跡始末をしてしまったところへ、ロバートが戸口へ来て窺った。
「いかがです、何か見つかりましたか」と、彼はしいてにやにやと笑いながら言った。
「ロバート、窓の一件ではおまえのほうが勝ったよ」と、僕は彼に約束の金貨をあたえた。
大工は黙って、手ぎわよく僕の指図通りに働いていたが、仕事が終わるとこう言った。
「わっしはただのつまらねえ人間でござんすが、悪いことは申しませんから、あなたの荷物をすっかり外へお出しになって、この船室の戸へ四インチ釘を五、六本たたっ込んで、釘付けにしておしまいなさるほうがよろしゅうござんすぜ。そうすれば、もうこの船室から悪い噂も立たなくなってしまいます。わっしの知っているだけでも、四度の航海のうちに、この部
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