をしているのに気づいた。朝飯が済んでから、僕は書物を取りに自分の部屋へゆくと、上の寝台のカーテンはまだすっかりしまっていて、なんの音もきこえない。同室の男はまだ寝ているらしかった。
 僕は部屋を出たときに、僕をさがしている給仕に出逢った。彼は船長が僕に逢いたいということをささやくと、まるである事件から遁《のが》れたがっているかのように、そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と廊下を駈けていってしまった。僕は船長室へゆくと、船長は待ち受けていた。
「やあ、どうもご足労をおかけ申して済みませんでした。あなたにちとお願いいたしたいことがございますもので……」と、船長は口を切った。
 僕は自分に出来ることならば、なんなりとも遠慮なくおっしゃってくださいと答えた。
「実は、あなたの同室の船客が行くえ不明になってしまいました。そのかたはゆうべ宵のうちに船室にはいられたことまでは分かっているのですが、あなたはそのかたの態度について、何か不審な点をお気づきになりませんでしたか」
 たった三十分前に、船医が言った恐ろしい事件が実際問題となって僕の耳にはいった時、僕は思わずよろけそうになった。
「あなたがおっしゃるのは、わたしと同室の男が海へ落ち込んだという意味ではないのですか」
 僕は訊き返すと、船長は答えた。
「どうもそうらしいので、わたしも心配しておるのですが……」
「実に不思議なこともあればあるものですな」
「なぜですか」と、今度は船長が訊き返した。
「では、いよいよあの男で四人目ですな」
 こう言ってから、僕は船長の最初の質問の答えとして、船医から聞いたとは言わずに、百五号船室に関して聞いた通りの物語を明細に報告すると、船長は僕が何もかも知っているのにびっくりしているらしかった。それから、僕はゆうべ起こった一部始終を彼にすっかり話して聞かせた。
「あなたが今おっしゃった事と、今までの三人のうち二人の投身者と同じ船室にいた人がわたしに話された事と、ほとんど全く一致しています」と、船長は言った。「前の投身者たちも寝床から跳《おど》り出すと、すぐに廊下を走っていきました。三人のうち二人が海中に落ち込むのを見張りの水夫がみつけたので、私たちは船を停めて救助艇をおろしましたが、どうしても発見されませんでした。もし、ほんとうに投身したとしても、ゆうべは誰もそれを見た者も聴いた者もなかったのです。あの船室を受け持ちの給仕は迷信の強い男だものですから、どうも何か悪いことが起こりそうな気がしたというので、けさあなたの同室の客をそっと見にゆくと、寝台は空《から》になって、そこにはその人の着物が、いかにもそこへ残しておいたといった風に散らかっていたのです。この船中であなたの同室の人を知っているのはあの給仕だけなので、彼は隈《くま》なく船中を捜しましたが、どうしてもその行くえが分からないのです。で、いかがでしょう、この出来事を他の船客たちに洩らさないようにお願いいたしたいのですが……。私はこの船に悪い名を付けさせたくないばかりでなく、この投身者の噂ほど船客の頭を脅迫《おびやか》すものはありませんからな。そうしてあなたには、高級船員の部屋のうちのどれか一つに移っていただきたいのですが……。むろん、わたしの部屋でも結構です。いかがです、これならばまんざら悪い条件ではないと思いますが……」
「非常に結構です」と、僕も言った。「いかにも承知いたしました。が、私はあの部屋が独占できるようになったのですから、むしろそこにじっとしていたいと思うのです。もし給仕があの不幸な男の荷物を出してしまってくれれば、わたしは喜んで今の部屋に残っています。もちろん、この事件については何事も洩らしませんし、また、自分はあの同室の男の二の舞はしないということを、あなたにお約束できるつもりでいます」
 船長は僕のこの向う見ずな考えを諫止《かんし》しようと努《つと》めたが、[#「、」は底本では「、、」]僕は高級船員の居候《いそうろう》を断わって、かの一室を独占することにした。それは馬鹿げた事であったかどうかは知らないが、もしもその時に船長の忠告を容れたならば、僕は平平凡凡の航海をして、おそらくこうして諸君に話すような奇怪な経験は得られなかったであろう。今まで百五号船室に寝た人間のあいだに起こった再三の投身事件の不快な一致点は船員らの頭に残っているだろうが、もうそんな一致点などは未来|永劫《えいごう》なくしてみせるぞと、僕は肚《はら》のなかで決心した。
 いずれにしても、その事件はまだ解決しなかった。僕は断乎《だんこ》として、今までのそんな怪談に心をみだされまいと決心しながら、船長とこの問題について、なおいろいろの議論を闘わした。僕は、どうもあの部屋には何か悪いことがあるらしいと言った。その証拠には、ゆうべは窓があけ放しになっていた。僕の同室の男は乗船して来たときから病人じみてはいたけれども、彼が寝床へはいってからは更に気違いのようになっていた。とは言うものの、あの男は船中のどこかに隠れていて、いまに発見されるかもしれないが、とにかく、あの部屋の空気を入れ替えて、窓を注意してしっかりしめておく必要があるから、もしも私にもう御用《ごよう》がなければ、部屋の通風や窓の締りがちゃんと出来ているかどうかを見とどけて来たいと、僕は船長に言った。
「むろん、あなたがそうしたいとお思いなら、現在の所におとどまりなさるのはあなたの権利ですけれども……。私としては、あなたにあの部屋を出ていただいて、すっかり錠をおろして、保管しておかせてもらいたいのです」と、船長はいくらかむっ[#「むっ」に傍点]としたように言った。
 僕はあくまでも素志を曲げなかった。そうして、僕の同室の男の失踪に関しては全然沈黙を守るという約束をして、船長の部屋を辞した。
 僕の同室の男の知人はこの船中にいなかったので、彼が行くえ不明になったからといって、歎く者は一人もなかった。夕方になって、僕はふたたび船医に逢った。船医は僕に、決心をひるがえしたかどうかを聞いたので、僕はひるがえさないと答えた。
「では、あなたもやがて……」と言いながら、船医は顔を暗くした。

       三

 その晩、僕らはトランプをして、遅くなってから寝ようとした。今だから告白するが、実を言うと、自分の部屋へはいった時はなんとなく忌《いや》な感動に胸を躍《おど》らせたのである。僕はいくら考えまいとしても、今ごろはもう溺死して、二、三マイルもあとの方で長い波のうねりに揺られている、あの背丈《せい》の高い男のことが考え出されてならなかった。寝巻に着替えようとすると、眼の前にはっきりと彼の顔が浮きあがってきたので、僕はもう彼が実際にいないということを自分の心に納得《なっとく》させるために、上の寝台のカーテンをあけ放してみようかとさえ思ったくらいであった。
 なんとなく気味が悪かったので、僕も入り口の扉の貫木《かんぬき》をはずしてしまった。しかも窓が不意に音を立ててあいたので、僕は思わずぎょっとしたが、それはすぐにまたしまった。あれだけ窓をしっかりとしめるように言いつけておいたのにと思うと、僕は腹が立ってきて、急いで部屋着を引っかけて、受け持ちの給仕のロバートを探しに飛び出した。今でも忘れないが、あまりに腹を立てていたので、ロバートを見つけるとあらあらしく百五号室の戸口までひきずって来て、あいている窓の方へ突き飛ばしてやった。
「毎晩のように窓をあけ放しにしておくなんて、なんという間抜けな真似をするのだ、横着野郎め。ここをあけ放しにしておくのは、船中の規定に反するということを、貴様は知らないのか。もし船が傾いて水が流れ込んでみろ。十人かかっても窓をしめることが出来なくなるぐらいのことは知っているだろう。船に危険をあたえたことを船長に報告してやるぞ、悪者め」
 僕は極度に興奮してしまった。ロバートは真っ蒼になって顫《ふる》えていたが、やがて重い真鍮の金具《かなぐ》をとって窓の丸いガラス戸をしめかけた。
「なぜ、貴様はおれに返事をしないのだ」と、僕はまた呶鳴《どな》り付けた。
「どうぞご勘弁なすってください、お客さま」と、ロバートは吃《ども》りながら言った。「ですが、この窓をひと晩じゅうしめておくことの出来るものは、この船に一人もいないのです。まあ、あなたが自分でやってごらんなさい。わたくしはもう恐ろしくって、この船に一刻《いっとき》も乗ってはいられません。お客さま、わたくしがあなたでしたら、早速この部屋を引き払って、船医の部屋へ行って寝るとか、なんとかいたしますがね。さあ、あなたがおっしゃった通りにしめてあるかないか、よくごらんなすった上で、ちょっとでも動くかどうか手で動かしてみてください」
 僕は窓の戸を動かしてみたが、なるほど固くしまっていた。
「いかがです」と、ロバートは勝ち誇ったように言葉をつづけた。「手前の一等給仕の折紙《おりかみ》に賭けて、きっと半時間経たないうちにこの戸がまたあいて、またしまることを保証しますよ。恐ろしいことには、ひとりでにしまるんですからね」
 僕は大きい螺旋《ねじ》や鍵止めを調べてみた。
「よし、ロバート。もしもひと晩じゅうにこの戸があいたら、おれはおまえに一ポンドの金貨をやろう。もう大丈夫だ。あっちへ行ってもいい」
「一ポンドの金貨ですって……。それはどうも……。今からお礼を申し上げておきます。では、お寝《やす》みなさい。こころよい休息と楽しい夢をごらんなさるように、お客さま」
 ロバートは、いかにもその部屋を去るのが嬉しそうなふうをして、足早に出て行った。むろん、彼は愚にもつかない話をして僕を怖がらせておいて、自分の怠慢をごまかそうとしたのだと、僕は思っていた。ところがその結果は、彼に一ポンドの金貨をせしめられた上に、きわめて不愉快な一夜を送ることになったのである。
 僕は寝床へはいって、自分の毛布でからだを包んでから、ものの五分も経たないうちにロバートが来て、入り口のそばの丸い鏡板のうしろに絶え間なく輝いていたランプを消していった。僕は眠りに入ろうとして、闇のなかに静かに横たわっていたが、とても眠られそうもないことに気がついた。しかし彼を呶鳴りつけたので、ある程度まで気が清《せい》せいしたせいか、一緒の部屋にいたあの溺死者のことを考えたときに感じたような不愉快な気分はすっかり忘れてしまった。それにもかかわらず、僕はもう眠気が去ったので、しばらくは床のなかで眼をあけながら、時どきに窓の方をながめていた。その窓は僕の寝ている所から見あげると、あたかも闇のなかに吊るしてある弱いひかりのスープ皿のように見えた。
 それから一時間ばかりは、そこに横たわっていたように思うが、折角《せっかく》うとうとと眠りかけたところへ、冷たい風がさっと吹き込むと同時に、僕の顔の上に海水の飛沫《しぶき》がかかったので、はっ[#「はっ」に傍点]と眼をさまして飛び起きると、船の動揺のために足をすくわれて、ちょうど窓の下にある長椅子の上に激しくたたきつけられた。しかし僕はすぐに気を取り直して膝で起《た》った。その時、窓の戸がまたいっぱいにあいて、またしまったではないか。
 これらの事実はもう疑う余地がない。僕が起きあがった時にはたしかに眼をあけていたのである。また、たとい僕が夢うつつであったとしても、こんなに忌《いや》というほどたたきつけられて眼を醒まさないという法はない。そのうえ僕は肘と膝とによほどの怪我をしているのであるから、僕自身がその事実を疑うと仮定しても、これらの傷が明くる朝になってじゅうぶんに事実を証明すべきであった。あんなにちゃんとしめておいたはずの窓が自然に開閉する――それはあまりにも不可解であるので、初めてそれに気づいた時には、恐ろしいというよりもむしろ唯《ただ》びっくりしてしまったのを、僕は今でもありありと記憶している。そこで、僕はすぐにそのガラス戸をしめて、あらん限りの力を絞ってその鍵をかけた。
 部屋は真っ暗であった。僕はロバートが僕の見て
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