ていた。すべての乗客は船に乗り込んだ第一日がいかに楽しいものであるかを知っているので、甲板《デッキ》を徐《しず》かに歩いたり、お互いにじろじろ見かわしたり、または同船していることを知らずにいた知人に偶然出逢ったりしていた。
最初の二回ほど食堂へ出てみないうちは、この船の食事が良いか悪いか、あるいは普通か、見当がつかない。船が|炎の嶋《ファイアー・アイランド》を出ないうちは、天候もまだわからない。最初は食卓もいっぱいであったが、そのうちに人が減ってきた。蒼い顔をした人たちが自分の席から飛び立って、あわただしく入り口の方へ出て行ってしまうので、船に馴れた連中はすっかりいい心持ちになって、うんと腹帯をゆるめて献立表を初めからしまいまで平らげるのである。
大西洋を一度や二度航海するのとは違って、われわれのように度《たび》かさなると、航海などは別に珍らしくないことになる。鯨や氷山は常に興味の対象物であるが、しょせん鯨は鯨であり、たまに目と鼻のさきへ、氷山を見るというまでのことである。ただ大洋の汽船で航海しているあいだに一番楽しい瞬間といえば、まず甲板を運動した挙げ句に最後のひと廻りをしている時と、最後の一服をくゆらしている時と、それから適度にからだを疲れさせて、子供のような澄んだ心持ちで自由に自分の部屋へはいるときの感じである。
船に乗った最初の晩、僕は特に懶《ものう》かったので、ふだんよりは、ずっと早く寝ようと思って、百五号室へはいると、自分のほかにも一人の旅客があるらしいので、少しく意外に思った。僕が置いたのとは反対側の隅に、僕のと全く同じ旅行鞄が置いてあって、上段の寝台――上床《アッパー・バース》――にはステッキや蝙蝠《こうもり》傘と一緒に、毛布がきちんと畳んであった。僕はたった一人でいたかったのでいささか失望したが、いったい僕の同室の人間は何者だろうという好奇心から、彼がはいって来たらその顔を見てやろうと待っていた。
僕が寝床へもぐり込んでから、ややしばらくしてその男ははいって来た。彼は、僕の見ることのできた範囲では、非常に背丈《せい》の高い、恐ろしく痩せた、そうしてひどく蒼い顔をした男で、茶色の髪や頬ひげを生やして、灰色の眼はどんよりと曇っていた。僕は、どうも怪しい風体の人間だなと思った。諸君は、ウォール・ストリートあたりを、別に何をしているということもなしにぶらぶらしている種類の人間をきっと見たに相違ない。またはキャフェ・アングレへしばしば現われて、たった一人でシャンパンを飲んでいたり、それから競技場などで別に見物するでもなしにぶらぶらしているような男――彼はそうした種類の人間であった。彼はややおしゃれで、しかもどことなく風変わりなところがあった。こういったふうの人間は大抵どの航路の汽船にも二、三人はいるものである。
そこで、僕は彼と近づきになりたくないものだと思ったので、彼と顔を合わさないようにするために、彼の日常の習慣を研究しておこうと考えながら眠ってしまった。その以来、もし彼が早く起きれば、僕は彼よりも遅く起き、もし彼がいつまでも寝なければ、僕は彼よりもさきに寝床へもぐり込んでしまうようにしていた。むろん、僕は彼がいかなる人物であるかを知ろうとはしなかった。もし一度こういう種類の男の素姓《すじょう》を知ったが最後、その男は絶えずわれわれの頭のなかへ現われてくるものである。しかし百五号室における第一夜以来、二度とその気の毒な男の顔を見なかったので、僕は彼について面倒な穿索《せんさく》をせずに済んだ。
鼾《いびき》をかいて眠っていた僕は、突然に大きい物音で目をさまされた。その物音を調べようとして、同室の男は僕の頭の上の寝台から一足飛びに飛び降りた。僕は彼が不器用な手つきで扉《ドア》の掛け金や貫木《かんぬき》をさぐっているなと思っているうちに、たちまちその扉がばたりとひらくと、廊下を全速力で走ってゆく彼の跫音《あしおと》がきこえた。扉は開いたままになっていた。船はすこし揺れてきたので、僕は彼がつまずいて倒れる音がきこえてくるだろうと耳を澄ましていたが、彼は一生懸命に走りつづけてでもいるように、どこへか走っていってしまった。船がゆれるごとに、ばたんばたんと扉が煽《あお》られるのが、気になってたまらなかった。僕は寝台から出て、扉をしめて、闇のなかを手さぐりで寝台へかえると、再び熟睡してしまって、何時間寝ていたのか自分にも分からなかった。
二
眼をさました時は、まだ真っ暗であった。僕は変に不愉快な悪寒《さむけ》がしたので、これは空気がしめっているせいであろうと思った。諸君は海水で湿《しけ》ている船室《キャビン》の一種特別な臭《にお》いを知っているであろう。僕は出来るだけ蒲団をかけて、あすあの男に大苦情を言ってやる時のうまい言葉をあれやこれやと考えながら、また、うとうとと眠ってしまった。そのうちに、僕の頭の上の寝台で同室の男が寝返りを打っている音がきこえた。たぶん彼は僕が眠っている間に帰って来たのであろう。やがて彼がむむう[#「むむう」に傍点]とひと声うなったような気がしたので、さては船暈《ふなよい》だなと僕は思った。もしそうであれば、下にいる者はたまらない。そんなことを考えながらも、僕はまた、うとうとと夜明けまで眠った。
船は昨夜よりもよほど揺れてきた。そうして、舷窓《まど》からはいってくる薄暗いひかりは、船の揺れかたによって、その窓が海の方へ向いたり、空の方へ向いたりするたびごとに色が変わっていた。
七月というのに、馬鹿に寒かったので、僕は頭をむけて窓のほうを見ると、驚いたことには、窓は鉤《かぎ》がはずれてあいているではないか。僕は上の寝台の男に聞こえよがしに悪口を言ってから、起き上がって窓をしめた。それからまた寝床へ帰るときに、僕は上の寝台に一瞥《いちべつ》をくれると、そのカーテンはぴったりとしまっていて、同室の男も僕と同様に寒さを感じていたらしかった。すると、今まで寒さを感じなかった僕は、よほど熟睡していたのだなと思った。
ゆうべ僕を悩ましたような、変な湿気の臭いはしていなかったが、船室の中はやはり不愉快であった。同室の男はまだ眠っているので、ちょうど彼と顔を合わさずに済ませるにはいい機会であったと思って、すぐに着物を着かえて、甲板へ出ると、空は曇って温かく、海の上からは油のような臭いがただよってきた。僕が甲板へ出たのは七時であった。いや、あるいはもう少し遅かったかもしれない。そこで朝の空気をひとりで吸っていた船医《ドクトル》に出会った。東部アイルランド生まれの彼は、黒い髪と眼を持った、若い大胆そうな偉丈夫で、そのくせ妙に人を惹《ひ》きつけるような暢気な、健康そうな顔をしていた。
「やあ、いいお天気ですな」と、僕は口を切った。
「やあ。いいお天気でもあり、いいお天気でもなし、なんだか私には朝のような気がしませんな」
船医は待ってましたというような顔をして、僕を見ながら言った。
「なるほど、そういえばあんまりいいお天気でもありませんな」と、僕も相槌《あいづち》を打った。
「こういうのを、わたしは黴臭《かびくさ》い天気と言っていますがね」と、船医は得意そうに言った。
「ときに、ゆうべは馬鹿に寒かったようでしたね。もっとも、あんまり寒いのでほうぼう見まわしたら、窓があいていました。寝床へはいる時には、ちっとも気がつかなかったのですが、お蔭で部屋が湿気《しけ》てしまいました」と、僕は言った。
「しけていましたか。あなたの部屋は何号です」
「百五号です」
すると、僕のほうがむしろ驚かされたほどに、船医はびっくりして僕を見つめた。
「どうしたんですか」と、僕はおだやかに訊《き》いた。
「いや、なんでもありません。ただ最近、三回ほどの航海のあいだに、あの部屋ではみなさんから苦情《くじょう》が出たものですから……」と、船医は答えた。
「わたしも苦情を言いますね。どうもあの部屋は空気の流通が不完全ですよ。あんな所へ入れるなんて、まったくひど過ぎますな」
「実際です。私にはあの部屋には何かあるように思われますがね……。いや、お客さまを怖がらせるのは私の職務ではなかった」
「いや、あなたは私を怖がらせるなどと、ご心配なさらなくてもようござんすよ。なに、少しぐらいの湿気は我慢しますよ。もし風邪でも引いたら、あなたのご厄介《やっかい》になりますから」
こう言いながら、僕は船医にシガーをすすめた。彼はそれを手にすると、よほどの愛煙家とみえて、どこのシガーかを鑑定するように眺めた。
「湿気などは問題ではありません。とにかくあなたのお体に別条ないということはたしかですからな。同室のかたがおありですか」
「ええ。一人いるのです。その先生ときたら、夜なかに戸締りをはずして、扉《ドア》をあけ放しておくという厄介者なのですからね」
船医は再び僕の顔をしげしげと見ていたが、やがて[#「やがて」は底本では「やがで」]シガーを口にくわえた。その顔はなんとなく物思いに沈んでいるらしく見えた。
「で、その人は帰って来ましたか」
「わたしは眠っていましたが、眼をさました時に、先生が寝返りを打つ音を聞きました。それから私は寒くなったので、窓をしめてからまた寝てしまいましたが、けさ見ますと、その窓はあいているじゃありませんか……」
船医は静かに言った。
「まあ、お聴きなさい。私はもうこの船の評判なぞはかまっていられません。これから私のすることをあなたにお話し申しておきましょう。あなたはどういうおかたか、ちっとも知りませんが、私は相当に広い部屋をここの上に持っておりますから、あなたは私と一緒にそこで寝起きをなさい」
こうした彼の申しいでには、僕も少なからず驚かされた。どうして船医が急に僕のからだのことを思ってくれるようになったのか、なにぶん想像がつかなかった。なんにしても、この船について彼が話した時の態度はどうも変であった。
「いろいろとご親切にありがとうございますが、もう船室も空気を入れ替えて、湿気も何もなくなってくると思います。しかしあなた、なぜこの船のことなんかかまわないと言われるのですか」と、私は訊いた。
「むろん、私たちは医者という職業の上からいっても、迷信家でないことは、あなたもご承知くださるでしょう。が、海というものは人間を迷信家にしてしまうものです。私はあなたにまで迷信をいだかせたくはありませんし、また恐怖心を起こさせたくもありませんが、もしもあなたが私の忠告をおいれくださるなら、とにかく私の部屋へおいでなさい」
船医はまた次のように言葉をつけ加えた。
「あなたが、あの百五号船室でお寝《やす》みになっているということを聞いた以上、やがてあなたが海へ落ち込むのを見なければならないでしょうから……。もっとも、これはあなたばかりではありません」
「それはどうも……。いったいどうしたわけですか」
僕は訊き返すと、船医は沈みがちに答えた。
「最近、三航海のあいだに、あの船室で寝た人たちはみんな海のなかへ落ち込んでしまったという事実があるのです」
僕は告白するが、人間の知識というものほど恐ろしく不愉快なものはない。僕はこのなまじいな知識があったために、かれが僕をからかっているのかどうかを見きわめようと思って、じっとその顔を穴のあくほど見ていたが、船医はいかにも真面目な顔をしているので、僕は彼のその申しいでを心から感謝するとともに、自分はその特別な部屋に寝たものは誰でも海へおちるという因縁の、除外例の一人になってみるつもりであるということを船医に語ると、彼はあまり反対もしなかったが、その顔色は前よりも更に沈んでいた。そうして、今度逢うまでにもう一度、彼の申しいでをよく考えたほうがよかろうということを、暗暗裡《あんあんり》にほのめかして言った。
それからしばらくして、僕は船医と一緒に朝飯を食いにゆくと、食卓にはあまり船客が来ていなかったので、僕はわれわれと一緒に食事をしている一、二名の高級船員が妙に沈んだ顔
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