「キッティ」と、私は叫んだ。「あすこに死んだウェッシントン夫人の苦力がやって来ましたよ。いったい、今の雇いぬしは誰なんでしょうね」
キッティは前のシーズンにウェッシントン夫人とちょっと逢ったことがあって、蒼ざめている彼女については常に好奇心を持っていた。
「なんですって……。どこに……」と、キッティは訊いた。「わたしにはどこにもそんな苦力は見えませんわ」
彼女がこう言った刹那《せつな》、その馬は荷を積んだ驢馬《ろば》を避けようとしたはずみに、ちょうどこっちへ進行して来た人力車と真向かいになった。私はあっ[#「あっ」に傍点]と声をかける間もないうちに、ここに驚くべきは、彼女とその馬とが苦力の車を突きぬけて通ったことである。苦力も車もその形はみえながら、あたかも稀薄なる空気に過ぎないようであった。
「どうしたというんです」と、キッティは叫んだ、「何をつまらないことを呶鳴《どな》っているんです。わたしは婚約をしたからといって、別に人間が変わったわけでもないんですよ。驢馬と露台との間にこんなに場所があったのね。あなたはわたしが馬に乗れないとお思いなんでしょう。では、見ていらっしゃい」
強
前へ
次へ
全56ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング