私のこのくだらない恋愛の火焔《ほのお》は燃えつくして、悼《いた》わしい終わりを告げてしまった。私はそれについて別に弁明しようとも思わない。ウェッシントン夫人もわたしのことを諦めて、断念しようとしていた。
一八八二年の八月に、彼女はわたし自身の口から、もう彼女の顔を見るのも、彼女と交際するのも、彼女の声を聞くのさえも飽《あ》きがきてしまったと言うのを聞かされた。百人のうち九十九人の女は、私がかれらに飽きたら、かれらもまた私に飽きるであろうし、百人のうち七十五人までは、他の男と無遠慮に、盛んにいちゃ[#「いちゃ」に傍点]ついて、私に復讐するであろう。が、ウェッシントン夫人はまさに百人目の女であった。いかに私が嫌厭《けんえん》を明言しても、または二度と顔を合わせないように、いかに手ひどい残忍な目に逢わせても、彼女にはなんらの効果がなかった。
「ねえ、ジャック」と、彼女はまるで永遠に繰り返しでもするように、馬鹿みたような声を立てるのであった。「きっとこれは思い違いです。……まったく思い違いです。わたしたちはまたいつか仲のいいお友達になるでしょう。どうぞ私を忘れないでください。わたしのジャック……」
わたしは犯罪者であった。そうして、私はそれを自分でも知っていたので、身から出た錆《さび》だと思って自分の不幸に黙って忍従し、また明らかに無鉄砲に厭《いと》ってもいた。それはちょうど、一人の男が蜘蛛を半殺しにすると、どうしても踏み潰してしまいたくなる衝動と同じことであった。私はこうした嫌厭の情を胸に抱きながら、そのシーズンは終わった。
あくる年わたしは再びシムラで逢った。――彼女は単調な顔をして、臆病そうに仲直りをしようとしたが、私はもう見るのも忌《いや》だった。それでも幾たびか私は彼女と二人ぎりで逢わざるを得なかったが、そんなときの彼女の言葉はいつでもまったく同じであった。相も変わらず例の「思い違いをしている」一点ばりの無理な愁歎をして、結局は、「友達になりましょう」と、いまだに執拗に望んでいた。
わたしが注意して観察したら、彼女はこの希望だけで生きていることに気がついたかもしれなかった。彼女は月を経るにつれて血色が悪く、だんだんに痩せていった。少なくとも諸君と私とは、こういった振舞いはよけいに断念させるという点において同感であろうと思う。実際、彼女のすることはさし出がましく、児戯《じぎ》にひとしく、女らしくもなかった。私は、彼女を大いに責めてもいいと思っている。それにもかかわらず、時どきに熱に浮かされたような、眠られない闇の夜などには、自分はだんだんに彼女に好意を持って来たのではないか、というようなことを思い始めた。しかし、それも確かに一つの「幻想」である。私はもう彼女を愛することが出来ないのに、愛するようなふうを続けていることは出来なかった。そんなことが出来るであろうか。第一、そんなことは私たちお互いにとって正しいことではなかった。
去年また私たちは逢った。――前の年と同じ時期である。そうして、前年とおなじように彼女は飽きあきするような歎願をくりかえし、私もまた例のごとくに情《すげ》ない返事をした。そうして、古い関係を回復しようとする彼女の努力がいかに間違っているか、またいかに徒労であるかを彼女に考えさせようとした。
シーズンが終わると、私たちは別れた。――言いかえれば、彼女はもうとても私と逢うことは出来ないと覚《さと》った。というのは、私が他に心を奪われることが出来《しゅったい》していたからである。わたしは今、自分の病室で静かにあの当時のことを回想していると、一八八四年のあのシーズンのことどもが異様に明暗入り乱れて、渾沌《こんとん》たる悪夢のように見えてくる。
――可愛いキッティ・マンネリングのご機嫌とり、わたしの希望、疑惑、恐怖、キッティと二人での遠乗り、身をおののかせながらの恋の告白、彼女の返事、それから時どきに黒と白の法被《はっぴ》を着た苦力《クーリー》の人力車に乗って、静かに通ってゆく白い顔の幻影、ウェッシントン夫人の手袋をはめた手、それから極めて稀《まれ》ではあったが、夫人とわたしと二人ぎりで逢ったときの彼女の歎願のもどかしい単調――。
わたしはキッティ・マンネリングを愛していた。実に心から彼女を愛していた。そうして、私が彼女を愛すれば愛するほど、アグネスに対する嫌厭の念はいよいよ増していった。八月にキッティと私とは婚約を結んだ。その次の日に、私はジャッコのうしろで呪うべき饒舌家の苦力らに逢った時、ちょっとした一時的の憐憫の情に駆られて、ウェッシントン夫人にすべてのことを打ち明けるのをやめてしまったが、彼女はわたしの婚約のことをすでに知っていた。
「ねえ、あなたは婚約をなすったそうですね、ジャック」と言ってか
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