ら、彼女は息もつかずに、「何もかも思い違いです。まったく思い違いです。いつか私たちはまた元のように仲よしのお友達になるでしょう。ねえ、ジャック」と言った。
 わたしの返事は男子すらも畏縮させたに違いなかった。それは鞭《むち》のひと打ちのように、私の眼前にある瀕死《ひんし》の女のこころを傷《いた》めた。
「どうぞ私を忘れないでください。ね、ジャック。わたしはあなたを怒らせるつもりではなかったのです。しかし本当に怒らせてしまったのね、本当に……」
 そう言ったかと思うと、ウェッシントン夫人はまったく倒れてしまった。わたしは彼女を心静かに家に帰らせるために、そのまま顔をそむけて立ち去ったが、すぐに自分は言い知れぬ下品な卑劣漢であったことを感じた。私はあとを振り返ると、彼女が人力車を引き返さしているのを見た。
 そのときの情景と周囲のありさまは私の記憶に焼き付けられてしまった。雨に洗いきよめられた大空(あたかも雨期の終わるころであったので)、濡れて黒ずんだ松、ぬかるみの道、火薬で削り取ったどす[#「どす」に傍点]黒い崖、こういったものが一つの陰鬱な背景を形づくって、その前に苦力らの黒と白の法被や黄いろい鏡板のついたウェッシントン夫人の人力車と、その内でうなだれている彼女の金髪とがくっきりと浮き出していた。彼女は左手にハンカチーフを持って、人力車の蒲団にもたれながら失神したようになっていた。わたしは自分の馬をサンジョリー貯水場のほとりの抜け道へ向けると、文字通りに馬を飛ばした。
「ジャック!」と、彼女が微《かす》かにひと声叫んだのを耳にしたような気がしたが、あるいは単なる錯覚かもしれなかった。わたしは馬をとめて、それをたしかめようとはしなかった。それから十分の後、わたしはキッティが馬に乗って来るのに出逢ったので、二人で長いあいだ馬を走らせて、さんざん楽しんでいるうちに、ウェッシントン夫人との会合のことなどはすっかり忘れてしまった。
 一週間ののちに、ウェッシントン夫人は死んだ。

       二

 夫人が死んだので、彼女が存在しているという一種の重荷がわたしの一生から取り除かれた。わたしは非常な幸福感に胸をおどらせながらプレンスワードへ行って、そこで三ヵ月間をおくっているうちに、ウェッシントン夫人のことなどは全然忘れ去った。ただ時どきに彼女の古い手紙を発見して、私たちの過去の関係が自分の頭に浮かんでくるのが不愉快であった。正月のうちにわたしは種《しゅ》じゅの場所に入れておいた私たちの手紙の残りを探し出して、ことごとく焼き捨てた。
 その年、すなわち一八八五年の四月の初めには、私はシムラにいた。――ほとんど人のいないシムラで、もう一度キッティと深い恋を語り、また、そぞろ歩きなどをした。私たちは六月の終わりに結婚することに決まっていた。したがって、当時印度における一番の果報者であると自ら公言している際、しかも私のようにキッティを愛している場合、あまり多く口がきけなかったということは、諸君にも納得《なっとく》できるであろう。
 それから十四日間というものは、毎日まいにち空《くう》に過ごした。それから、私たちのような事情にある人間が誰でもいだくような感情に駆られて、私はキッティのところへ手紙を出して、婚約の指環というものは許嫁《いいなずけ》の娘としてその品格を保つべき有形的の標《しるし》であるから、その指環の寸法を取るために、すぐにハミルトンの店まで来るようにと言ってやった。実をいうと、婚約の指環などということは極めてつまらないことであるので、私はこのときまで忘れていたのである。そこで、一八八五年の四月十五日に私たちは、ハミルトンの店へ行った。
 この点をどうか頭においてもらいたいのだが――たとい医者がどんなに反対なことを言おうとも――その当時のわたしは全くの健康状態であって、均衡を失わない理性と絶対に冷静な心とを持っていた。キッティと私とは一緒にハミルトンの店へはいって、店員がにやにや笑っているのもかまわず、自分でキッティの指の太さを計ってしまった。指環はサファイヤにダイヤが二つはいっていた。わたしたちはそれからコムバーメア橋とペリティの店へゆく坂道を馬に乗って降りて行った。
 あらい泥板岩《シェール》の上を用心ぶかく進んでゆく私の馬のそばで、キッティが笑ったり、おしゃべりをしたりしている折りから――ちょうど平原のうちに、かのシムラが図書閲覧室やペリティの店の露台《バルコニー》に囲まれながら見えてきた折りから――私はずっと遠くのほうで誰かが私の洗礼名《クリスチャンネーム》を呼んでいるのに気がついた。かつて聞いたことのある声だなと直感したが、さていつどこで聞いたのか、すぐには頭に浮かんでこなかった。ほんのわずかのあいだ、その声は今まで来た小
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