路とコムバーメア橋との間の道いっぱいに響き渡ったので、七、八人の者がこんな乱暴な真似をしているのだと思ったが、結局それは私の名を呼んでいるのではなくて、何か歌を唄っているに相違ないと考えた。
そのとき、たちまちにペリティの店の向う側を黒と白の法被《はっぴ》を着た四人の苦力《クーリー》が、黄いろい鏡板の安っぽい出来合い物の人力車を挽《ひ》いて来るのに気がついた。そうして、懊悩《おうのう》と嫌悪《けんお》の念を持って、わたしは去年のシーズンのことや、ウェッシントン夫人のことを思い出した。
それにしても、彼女はもう死んでしまって、用は済んでいるはずである。なにも黒と白の法被を着た苦力をつれて、白昼の幸福を妨げにこなくてもいいわけではないか。それで私は、まずあの苦力らの雇いぬしが誰であろうと、その人に訴えて、彼女の苦力の着ていた法被を取り替えるように懇願してみようと思った。あるいはまた、わたし自身がかの苦力を雇い入れて、もし必要ならばかれらの法被を買い取ろうと思った。とにかくに、この苦力らの風采がどんなに好ましからぬ記憶の流れを喚起《かんき》したかは、とても言葉に言い尽くせないのである。
「キッティ」と、私は叫んだ。「あすこに死んだウェッシントン夫人の苦力がやって来ましたよ。いったい、今の雇いぬしは誰なんでしょうね」
キッティは前のシーズンにウェッシントン夫人とちょっと逢ったことがあって、蒼ざめている彼女については常に好奇心を持っていた。
「なんですって……。どこに……」と、キッティは訊いた。「わたしにはどこにもそんな苦力は見えませんわ」
彼女がこう言った刹那《せつな》、その馬は荷を積んだ驢馬《ろば》を避けようとしたはずみに、ちょうどこっちへ進行して来た人力車と真向かいになった。私はあっ[#「あっ」に傍点]と声をかける間もないうちに、ここに驚くべきは、彼女とその馬とが苦力の車を突きぬけて通ったことである。苦力も車もその形はみえながら、あたかも稀薄なる空気に過ぎないようであった。
「どうしたというんです」と、キッティは叫んだ、「何をつまらないことを呶鳴《どな》っているんです。わたしは婚約をしたからといって、別に人間が変わったわけでもないんですよ。驢馬と露台との間にこんなに場所があったのね。あなたはわたしが馬に乗れないとお思いなんでしょう。では、見ていらっしゃい」
強情なキッティはその優美な小さい頭を空中に飛び上がらせながら、音楽堂の方向へ馬を駈けさせた。あとで彼女自身も言っていたが、馬を駈けさせながらも、私があとからついて来るものだとばかり思っていたそうである。ところが、どうしたというのであろう。私はついてゆかなかった。私はまるで気違いか酔っ払いのようになっていたのか、あるいはシムラに悪魔が現われたのか、わたしは自分の馬の手綱を引き締めて、ぐるりと向きを変えると、例の人力車もやはり向きを変えて、コムバーメア橋の左側の欄干に近いところで私のすぐ目の前に立ちふさがった。
「ジャック。私の愛するジャック!」(その時の言葉はたしかにこうであった。それらの言葉は、わたしの耳のそばで呶鳴り立てられたように、わたしの頭に鳴りひびいた。)「何か思い違いしているのです。まったくそうです。どうぞ私を堪忍《かんにん》してください、ジャック。そしてまたお友達になりましょう」
人力車の幌《ほろ》がうしろへ落ちると、わたしが夜になると怖がるくせに毎日考えていた死そのもののように、その内にはケイス・ウェッシントン夫人がハンカチーフを片手に持って、金髪の頭《かしら》を胸のところまで垂れて坐っていた。
どのくらいの間、わたしは身動きもしないでじいっと見つめていたか、自分にも分からなかったが、しまいに馬丁が私の馬の手綱をつかんで、病気ではないかと訊《き》いたので、ようようわれにかえったのである。私は馬からころげ落ちんばかりに、ほとんど失神したようになってペリティの店へ飛び込んで、シェリー・ブランデイを一杯飲んだ。
店の内には二組か三組の客がカフェーのテーブルをかこんで、その日の出来事を論じていた。この場合、かれらの愚にもつかない話のほうが、私には宗教の慰藉《いしゃ》などよりも大いなる慰藉になるので、一も二もなくその会話の渦中に投じて、喋《しゃ》べったり、笑ったり、鏡のなかへ死骸のように青くゆがんで映った人の顔にふざけたりしたので、三、四人の男はあきれてわたしの態度をながめていたが、結局、あまりにブランデイを飲み過ぎたせいだろうと思ったらしく、いい加減にあしらって私を除《の》け者にしようとしたが、私は動かなかった。なぜといって、そのときの私は、日が暮れて怖くなったので夕飯の仲間へ飛び込んでくる子供のように、自分の仲間が欲しかったからであった。
それから私は
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