、十分間ぐらいも雑談していたに相違なかったが、そのときの私には、その十分間ほどが実に限りもなく長いように思われた。そのうちに、外でわたしを呼んでいるキッティの声がはっきりと聞こえたかと思うと、つづいて彼女が店のなかへはいって来て、わたしが婚約者としての義務をはなはだ怠っているということを婉曲に詰問しようとした。私の目の前には何か得体《えたい》の知れないものがあって、彼女をさえぎってしまった。
「まあ、ジャック」と、キッティは呶鳴った。「何をしていたんです。どうしたんです。あなたはご病気ですか」
 こうなると、嘘を教えられたようなもので、きょうの日光がわたしには少し強過ぎたと答えたが、あいにく今は四月の陰《くも》った日の午後五時近くであった上に、きょうはほとんど日光を見なかったことに気がついたので、なんとかそれを胡麻化《ごまか》そうとしたが、キッティはまっかになって外へ出て行ってしまったので、私はほかの連中の微笑に送られながら、悲観のていで彼女のあとについて出た。私はなんといったか忘れてしまったが、どうも気分が悪いからというようなことで、ふた言三言いいわけをした後、独りでもっと乗り廻るというキッティを残して、自分だけは徐《しず》かに馬をあゆませてホテルに帰った。
 自分の部屋に腰をおろして私は、冷静にこの出来事を考えようとした。ここに私という人間がある。それはテオパルド・ジャック・パンセイという男で、一八八五年度の教養のあるベンガル州の文官で、自分では心身ともに健全だと思っている。その私が、しかも婚約者のかたわらで、八ヵ月以前に死んで葬られた一婦人の幻影に悩まされたというのは、実に私としては考え得べからざる事実であった。キッティと私とがハミルトンの店を出たときには、わたしはウェッシントン夫人のことを何事も考えていなかった。ペリティの店の向う側には見渡すかぎり塀があるばかりで、きわめて平平凡凡な場所であった。おまけに白昼で、道には往来の人がいっぱいであった。しかも、そこには常識と自然律とに全然反対に、墓から出た一つの顔が現われたのであった。
 キッティのアラビア馬がその人力車を突きぬけて行ってしまったので、誰かウェッシントン夫人に生き写しの婦人が、その人力車と、黒と白の法被を着た苦力を雇ったのであってくれればいいがと思った最初の希望は外《はず》れた。わたしは幾たびかいろいろに考えを立て直してみたが、結局それは徒労と絶望に終わった。あの声はどうしても妖怪変化の声とは考えられなかった。最初、私はすべてをキッティに打ち明けた上で、その場で彼女に結婚するように哀願して、彼女の抱擁によって人力車の幻影を防ごうと考えた。「畢竟《ひっきょう》」と、私は自分に反駁《はんばく》した。
「人力車の幻影などは、人間に怪談的錯覚性があることを説明するに過ぎない。男や女の幽霊を見るということはあり得るかもしれないが、人力車や苦力の幽霊を見るなどという、そんなばかばかしいことがあってたまるものか。まあ、丘に住む人間の幽霊とでもいうのだろう」
 次の朝、わたしはきのう午後における自分の常軌を逸した行為を寛恕《ゆる》してくれるようにと、キッティのところへ謝罪の手紙を送った。しかも私の女神はまだ怒っていたので、私が自身に出頭して謝罪しなければならない破目《はめ》になった。私はゆうべ徹夜で、自分の失策について考えていたので、消化不良から来た急性の心悸亢進《しんきこうしん》のためにとんだ失礼をしましたと、まことしやかに弁解したので、キッティのご機嫌も直って、その日の午後に二人はまた馬の轡《くつわ》をならべて外出したが、私の最初の嘘は、やはり二人の心になんとなく溝《みぞ》を作ってしまった。
 彼女はしきりにジャッコのまわりを馬で廻りたいと言ったが、私はゆうべ以来まだぼんやりしている頭で、それに弱く反対して、オブザーバトリーの丘か、ジュトーか、ボイルローグング街道を行こうと言い出すと、それがまたキッティの怒りに触れてしまったので、私はこの以上の誤解を招いては大変だと思って、その言うがままにショタ・シムラの方角へむかった。
 私たちは道の大部分を歩いて、それから尼寺の下の一マイルばかりは馬をゆるく走らせて、サンジョリー貯水場のほとりの平坦なひとすじ道に出るのが習慣になっていた。ややもすれば質《たち》の悪い私たちの馬は駈け出そうとするので、坂道の上に近づくと、わたしの心臓の動悸はいよいよ激しくなってきた。この午後から私の心は、ウェッシントン夫人のことで常にいっぱいになっていたので、ジャッコの道の到る所が、その昔ウェッシントン夫人と二人で歩いたり、話したりして通ったことを私に思い出させた。思い出は路ばたの石ころにも満ちている。雨に水量《みずかさ》を増した早瀬も不倫の物語を笑うよ
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