もヘザーレッグが往診に呼ばれて外出する時には、よくパンセイのそばに坐っていてやったが、ある時わたしはもう少しで叫び声を立てようとしたことがあった。それから彼は、低いけれども忌《いや》に落ち着いた声で、自分の寝床の下をいつでも男や女や子供や悪魔の行列が通ると言って、私をぞっとさせた。彼の言葉は熱に浮かされた病人独特の気味の悪いほどの雄弁であった。彼が正気に立ちかえった時、わたしは彼の煩悶《はんもん》の原因となる事柄の一部始終を書きつらねておけば、彼のこころを軽くするに違いないからと言って聞かせた。実際、小さな子供が悪い言葉を一つ新しく教わると、扉にそれをいたずら書きをするまでは満足ができないものである。これもまた一種の文学である。
執筆中に彼は非常に激昂していた。そうして、彼の執《と》った人気取りの雑誌張りの文体が、よけい彼の感情をそそった。それから二ヵ月後には、仕事をしても差し支えないとまで医者にいわれ、また人手の少ない委員会の面倒な仕事を手伝ってくれるように切《せつ》に懇望されたにもかかわらず、臨終に際して、自分は悪夢におそわれているということを明言しながら、みずから求めて死んでしまった。わたしは彼が死ぬまでその原稿を密封しておいた。以下は彼の事件の草稿で、一八八五年の日付けになっていた。
私の医者はわたしに休養、転地の必要があると言っている。ところが、私には間もなくこの二つながらを実行することが出来るであろう。――但《ただ》し、わたしの休養とは、英国の伝令兵の声や午砲の音によって破られないところの永遠の安息であり、わたしの転地というのは、どの帰航船もわたしを運んで行くことの出来ないほどに遠いあの世へである。しばらくわたしは今いるところに滞在して、医師にあからさまに反対して、自分の秘密を打ち明けることに決心した。諸君は、おのずと私の病気の性質を精確に理解するとともに、かつて女からこの不幸な世の中に生みつけられた男のうちで、私のように苦しんできた者があるかどうかが、またおのずから分かるであろう。
死刑囚が絞首台にのぼる前に懺悔《ざんげ》をしなければならないように、私もこれから懺悔話をするのであるが、とにかく、私のこの信じ難いほどに忌《いま》わしい狂乱の物語は、諸君の注意を惹《ひ》くであろう。けれども、私は自分のこの物語が永久に人びとから信じられるとは全然思わない。二ヵ月前には私も、これと同じ物語を大胆にも私に話したその男を、気ちがいか酔いどれのように侮蔑した。そうして、二ヵ月前には私は印度でも一番の仕合わせ者であった。それが今日では、ペシャワーから海岸に至るまでの間に、私よりも不幸な人間はまたとあろうか。
この物語を知っているものは、私の医者と私の二人である。しかも私の医者は、わたしの頭や消化力や視力が病いに冒《おか》されているために、時どきに固執性の幻想が起こってくるのであると解釈している。幻想、まったくだ! わたしは自分の医者を馬鹿呼ばわりしているが、それでもなお、判で押したように彼は綺麗に赤い頬鬚《ほおひげ》に手入れをして、絶えず微笑をうかべながら、温和な職業的態度で私を見廻って来るので、しまいには私も、おれは恩知らずの、性《たち》の悪い病人だと恥じるようになった。しかし、これから私が話すことが幻想であるかどうか、諸君に判断していただきたい。
三年前に長い賜暇《しか》期日が終わったので、グレーヴセントからボンベイへ帰る船中で、ボンベイ地方の士官の妻のアグネス・ケイス・ウェッシントンという女と一緒になったのが、そもそも私の運命――わたしの大きな不運であった。いったい、彼女はどんなふうの女であるかを知るのは、諸君にとってもかなり必要なことであるが、それには航海の終わりごろから彼女とわたしとが、たがいに熱烈な不倫の恋に陥《お》ちたということを知れば、満足がゆかれるだろう。
こんなことは、自分に多少なりとも虚栄心がある間は白状の出来ることではないのであるが、今の私にはそんなものはちっともない。さて、こうした恋愛の場合には、一人があたえ、他の一人が受けいれるというのが常である。ところが、われわれの前兆の悪い馴れそめの第一日から、私はアグネスという女は非常な情熱家で、男まさりで――まあ、しいて言うなら――私よりも純な感情を持っているのを知った。したがってその当時、彼女がわれわれの恋愛をどう思っていたか知らないが、その後、それは二人にとって実に苦《にが》い、味のないものになってしまった。
その年の春にボンベイに着くと、私たちは別れわかれになった。それから二、三ヵ月はまったく逢わなかったが、わたしの賜暇と彼女の愛とがまたもや二人をシムラに馳《は》しらせた。そこでその季節《シーズン》を二人で暮らしたが、その年の終わるころに
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