言葉に耳を傾けるのを中止しなければならなかった。
 もう一度、わたしは疲れた足を引き摺りながら尼寺の坂道を登って、平坦な道へ出た。そこからキッティと例の男とは馬をゆるやかに走らせたので、私はウェッシントン夫人と二人ぎりになった。
「アグネス」と、私は言った。「幌《ほろ》をうしろへ落としたらどうです。そうして、こうやって始終人力車に乗って私につきまとうのは、いったいどういうわけだか話してください」
 幌は音もなく落ちて、わたしは死んで埋められた夫人と顔を突き合わせた。
 彼女はわたしが生前に見た着物を着て、右の手にいつもの小さいハンカチーフを持ち、左の手にやはりいつもの名刺入れを持っていた。(ある婦人が八ヵ月前に名刺入れを持って死んだことがあった。)さあ、こうなって来ると、わたしは現在と過去との区別がつきかねたので、また少なくとも自分は気が狂っていないということをたしかめるために、路ばたの石の欄干の上に両手を置いて、掛け算の表をくりかえさなければならなかった。
「アグネス」と、わたしはくりかえした。「どうか私にそのわけを話してください」
 ウェッシントン夫人は前かがみになると、いつもの癖で、妙に早く首を傾《かし》げてから口をひらいた。
 もしもまだ、私の物語はあまりに気違いじみて諸君には信じられないというほどでないというのであったら、私はいま諸君に感謝しなければならない。誰も――私はキッティのために自分の行為のある種の弁明としてこれを書いているのであるが、そのキッティでさえも――私を信じてくれないであろうということを知っているけれども、とにかくに私は自分の物語を進めてゆこう。
 ウェッシントン夫人は話し出した。そうして、私は彼女と一緒にサンジョリーの道から印度総督邸の下の曲がり角まで、まるで生きている婦人の人力車と肩をならべて歩いているようにして、夢中に話しながら来てしまった。すると、急に再度の発作が襲ってきたので、テニソンの詩に現われてくる王子のように、わたしは幽霊界をさまよっているような気になった。
 総督邸では園遊会を催しているので、私たち二人は帰途につく招待客の群集に巻き込まれてしまった。私にはかれら招待客がみな本物の幽霊に見えてきた。――しかもウェッシントン夫人の人力車をやりすごさせるために、かれらは道をひらいたではないか。
 この考えてもぞっとするような会
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