彼もわたしの話を知っていて、妙に取ってつけたように気味の悪いほど親切で、鄭重《ていちょう》にしてくれるのに気がついたので、寿命のあらん限りは自分の仲間のうちにいようと肚《はら》をきめた。しかしその仲間の一人になり切ってしまうことは出来なかった。したがって私には、倶楽部の下の木蔭でなんの苦もなさそうに笑っていられる苦力らが憎らしいほどに羨ましかった。
 私は倶楽部で昼飯を食って、四時頃にぶらりと外へ出ると、キッティに逢えはしないかという漠然とした希望をいだきながら木蔭の路へ降りていった。音楽堂の近くで、黒と白の法被がわたしのそばに来るなと思う間もなく、ウェッシントン夫人のいつもの歎願の声が耳のそばに聞こえた。実は外へ出た時からすでに予期していたので、むしろその出現が遅いのに驚いたくらいであった。それからまぼろしの人力車と私とはショタ・シムラの道に沿って、摺れすれに肩を並べながら黙って歩いて行った。物品陳列館の近所で、キッティが一人の男と馬を並べながら私たちを追い越した。彼女はまるで路ばたの犬でも見るような眼で、私を見返っていった。ちょうど夕方ではあり、雨さえ降っていたので、私がわからなかったというかもしれないが、彼女は人を追い越してゆくに挨拶さえもしなかった。
 こうしてキッティとその連れの男と、私とわたしの無形の愛の光りとは、ふた組になってジャッコの周囲を徐行した。道は雨水で川のようになっている。松からは樋《とい》のように下の岩へ雨だれを落としている。空気は強い吹き降りの雨に満ちている。
「おれは賜暇《しか》を得てシムラに来ているジャック・パンセイだ。……シムラに来ているのだ。来る日も、来る日も、平凡なシムラ……。だが、おれはここを忘れてはならないぞ……忘れてはならないぞ」と、わたしは二、三度、ほとんど大きい声を立てんばかりに独りごとを言っていた。
 それから倶楽部で耳にしたきょうの出来事の二、三、たとえばなにがしが所有の馬の値《あた》いはいくらであったというような事――私のよく知っている印度居住の英国人の実生活に関係ある事どもを追想してみようとした。また、わたしは自分が気が違っていないということをしっかりと頭に入れようと思って、出来るだけ早く掛け算の表をさえくりかえしてみた。その結果は、わたしに非常な満足をもたらした。そのためにしばらくの間は、ウェッシントン夫人の
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