くれあがって雲の峰のように渦を巻いて、わたしの上に落ちてきたような気がしていた。
四
それから一週間の後《のち》(すなわち、五月七日)に私はヘザーレッグの部屋に、まるで小さい子供のように弱って横たわっているのに気がついた。ヘザーレッグは机の上の書類越しに私をじっと見守っていた。かれの最初の言葉は別に私に力をつけてくれるようなものでもなかった。わたし自身もあまりに疲れ過ぎていたので、少しも感動しなかった。
「キッティさんから返してきたあなたの手紙がここにあります。さすがに若い人だけに、あなたもだいぶ文通をしたものですね。それからここに指環らしい包みがあります。それにマンネリングのお父さんからの丁寧な手紙がつけてありましたが、それは私の名《な》宛《あて》であったので、読んでから焼いてしまいました。お父さんはあなたに満足していないようでしたよ」
「で、キッティは……」と、私は微《かす》かな声で訊いた。
「いや、その手紙は彼女のお父さんの名にはなっていましたが、むしろ彼女の言っている言葉でしたよ。その手紙によると、あなたは彼女と恋に陥《お》ちた時に、不倫の思い出の何もかも打ち明けてしまわなければならなかったというのです。それからまた、あなたがウェッシントン夫人に仕向けたようなことを、婦人に対しておこなう男は、男子全体の名誉をよごした謝罪のために、よろしく自殺すべきであるというのですよ。彼女は若いくせに、感情に激しやすい勇婦ですからね。ジャッコへゆく途中で騒ぎが起こった時、あなたが囈語《うわこと》に悩んだだけでもうじゅうぶんであるのに、彼女はあなたと再び言葉を交すくらいならば、いっそ死んでしまうというのですよ」
わたしは唸《うな》り声を発するとともに、反対の側へ寝返りを打ってしまった。
「さて、あなたはもう物を選択する力を回収していますね。ようござんすか。この婚約は破られるべき性質のものであり、また、この上にマンネリング家の人びともあなたを苛酷な目に逢わせようとは思っていません。ところで、いったいこの婚約は単なる囈語のために破られたのでしょうか、それとも癲癇《てんかん》的|発作《ほっさ》のためでしょうか。お気の毒ですが、あなたが自分には遺伝性癲癇があると申し出てくれなければ、私には他に適当な診断がつかないのですがね。私は特に遺伝性癲癇という言葉を申します
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