れから、自分たち二人は婚約の間柄であるから、死んで地獄でも二人のあいだの絆《きずな》を断ち切ることは出来ないぞと幽霊に話したことだけは、自分でも明瞭に記憶しているし、自分よりも更にキッティのほうがよく知っている。私は夢中になって、人力車のうちの恐ろしい人物にむかって、自分の言ったことはみな事実であるから、今後自分を殺すような苦悩《くるしみ》をゆるしてくれと、くりかえして訴えた。今になって思えば、それは幽霊に話しかけていたというよりも、ウェッシントン夫人と自分との古い関係をキッティに打ち明けたようなものであったかもしれない。真っ白な顔をして眼を光らせながら、その話にキッティが一心に耳を傾けていたのを私は見た。

「どうもありがとう、パンセイさん」と、キッティは言った。「もうたくさんです。わたしの馬を連れておいで」
 東洋人らしい落ちついた馬丁が、勝手に走って行った馬を連れ戻して来ると、キッティは鞍《くら》に飛び乗った。私は彼女をしっかりと押さえて、私の言うことをよく聞いて、わたしを免《ゆる》してもらいたいと切願すると、彼女はわたしの口から眼へかけて鞭で打った。そうして、ひと言ふた言の別れの言葉を残したままで行ってしまった。
 その別れの言葉――私は今もって書くに忍びない。私はいろいろに判断した結果、彼女は何もかも知ってしまったということが一番正しい解釈であると思った。わたしは人力車のほうへよろめきながら行った。私の顔にはキッティの鞭の跡がなまなましく紫色になって血が流れていた。私はもう自尊心も何もなくなってしまった。ちょうどその時、多分キッティと私のあとを遠くからついて来たのであろう、ヘザーレッグが馬を飛ばして来た。
「先生」と、私は自分の顔を指さしながら言った。「ここにマンネリング嬢からの破談通知の印《しるし》があります。……十万ルピーはすぐにいただけるのでしょうね」
 ヘザーレッグ先生の顔を見ると、こうした卑《いや》しむべき不幸の場合にもかかわらず、わたしは冗談を言う余裕が出てきた。
「わたしは医者としての名誉に賭けても……」
「冗談ですよ」と、わたしは言った。「それよりも、私は一生の幸福を失ってしまったのですから、私を家へ連れて行ってください」
 私がこんなことを話している間に、例の人力車は消えてしまった。それから私はまったく意識を失って、ただ、ジャッコの峰がふ
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