、あのときにベルは一度も鳴らないと思いますよ。あのとき以外にも鳴りませんでした。もっとも、君が停車場と通信をしていたときは別だが……」
彼はかしらをふった。
「わたしは今までベルを聞き誤まったことは一度もありません。わたしは幽霊が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。幽霊の鳴らすベルは、なんともいえない一種異様のひびきで、そのベルは人の眼にみえるように動くのではないのです。それがあなたの耳には聞こえなかったかも知れませんが、私には聞こえたのです」
「では、あのときに外を見たらば、怪しい物がいたようでしたか」
「あすこにいました」
「二度ながら……?」
「二度ながら……」と、彼ははっきりと言い切った。
「では、これから一緒に出て行って見ようじゃありませんか」
彼は下くちびるを噛みしめて、あまり行きたくない様子であったが、それでも故障なしに起ちあがった。私はドアをあけて階段に立つと、彼は入り口に立った。そこには危険信号燈が見える。暗いトンネルの入り口がみえる。ぬれた岩の高い断崖がみえる。その上にはいくつかの星がかがやいていた。
「見えますか」と、私は彼の顔に特別の注意を払いながら訊いた。
彼の眼は大きく――それはおそらくそこを見渡したときの私の眼ほどではなかったかもしれないが――緊張したように輝いていた。
「いえ、いません」
「わたしにも見えない」
二人は再びうちにはいって、ドアをしめて椅子にかかった。私はいまこの機会をいかによく利用しようかということを考えていたのである。たとい何か彼を呼ぶものがあるとしても、ほとんど真面目に論議するにも足らないような事実を楯《たて》にとって、彼がそれを当然のことのように主張する場合には、なんと言ってそれを説き導いてよかろうか。そうなると、わたしははなはだ困難な立場にあると思ったからである。
「これで、私がどんなに困っているかということが、あなたにもよくお分かりになったろうと思いますが、いったいなんであの幽霊が出るのでしょうか」
私は彼に対して、自分はまだ十分に理解したとは言いかねると答えると、彼はその眼を爐の火に落として、時どきに私の方をみかえりながら、沈みがちに言った。
「なんの知らせでしょうか。どんな変事が起こるのでしょうか。その変事はどこに起こるのでしょうか。線路の上のどこかに危険がひそんでいて、
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