おそるべき禍《わざわ》いが起こるのでしょう。いままでのことを考えると、今度は三度目です。しかし、これはたしかに私を残酷に苦しめるというものです。どうしたらいいでしょうか」
彼はハンカチーフを取り出して、その熱いひたいからしたたる汗を拭いた。そうして、さらに手のひらを拭きながら言った。
「わたしが上下線の一方か、または両方へ危険信号を発するとしても、さてその理由をいうことが出来ないのです。私はいよいよ困るばかりで、碌《ろく》なことにはなりません。みんなは私が気でも狂ったと思うでしょう。まずこんなことになります。……私が〈危険、警戒ヲ要ス〉という信号をすると、〈イカナル危険ナリヤ、場所ハイズコナリヤ〉という返事が来ます。それにたいして、私が〈ソレハ不明、ゼヒトモ警戒ヲ要ス〉と答えるとしたら、どうなるでしょう。結局わたしは免職になるのほかはありますまい」
彼の悩みは見るにたえないほどであった。こんな不可解の責任のために、その生活をもくつがえすということは、実直な人間にとって精神的苦痛に相違なかった。彼は黒い髪をうしろへ押しやって、極度の苦悩にこめかみをこすりながら言いつづけた。
「その怪しい影が初めて危険信号燈の下に立った時に、どこに事件が起こるかということを、なぜ私に教えてくれないのでしょう。それがどうしても起こるのなら……。そうしてまた、それが避けられるものならば、どうしたらそれを避けられるかということを、なぜ私に話してくれないのでしょう。二度目に来た時には顔を隠していましたが、なぜその代りに〈女が死ぬ、外へ出すな〉と言わないのでしょう。前の二度の場合は、その予報が事実となって現われることを示して、私に三度目の用意をしろと言うにとどまるならば、なぜもっとはっきりと私に説明してくれないのでしょう。悲しいかな、私はこの寂寥《せきりょう》たるステーションにある一個の哀れなる信号手に過ぎないのです。彼はなぜ私以上に信用もあり実力もある人のところへ行かないのでしょうか」
このありさまを見た時に、私はこの気の毒な男のために、また二つには公衆の安全のために、自分としてはこの場合、つとめて彼の心を取り鎮めるように仕向けなければならないと思った。そこで私は、それが事実であるかないかというような問題を別にして、誰でもその義務をまっとうするほどの人は、せいぜいその仕事をよくしなければ
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