どこへか消え失せてしまいました」
「それから何事も起こりませんでしたか」
彼は指のさきで私の腕を二、三度押した。その都度《つど》に、彼は怖ろしそうにうなずいたのである。
「その日に、列車がトンネルから出て来たとき、私の立っている側の列車の窓で、人の頭や手がごっちゃに出て、何かしきりに、振っているように見えたので、わたしは早速《さっそく》に機関手にむかって、停止《ストップ》の信号をしました。機関手は運転を停《と》めてブレーキをかけました。列車は五百ヤードほども行き過ぎたのです。私がすぐに駈けてゆくと、そのあいだに怖ろしい叫び声を聞きました。美しい若い女が列車の貸切室のなかで突然に死んだのです。その女はこの小屋へ運び込まれて、ちょうどあなたと私とが向かい合っている、ここの処《ところ》へ寝かしました」
彼がそう言って指さした場所を見おろしたとき、わたしは思わず自分の椅子をうしろへ押しやった。
「ほんとうです。まったくです。私が今お話をした通りです」
私はなんとも言えなくなった。私の口は乾き切ってしまった。外ではこの物語に誘われて、風や電線が長い悲しい唸り声を立てていた。
「まあ、聴いてください」と、彼はつづけた。「そうして、私がどんなに困っているか、お察しください。その幽霊が一週間前にまた出て来ました。それからつづいて、気まぐれのように時どきに現われるのです」
「あの灯のところに……?」
「あの危険信号燈のところにです」
「どうしているように見えますか」
彼は激しい恐怖と戦慄を増したような風情で「どうか退《ど》いてくれ!」と言うらしい仕科《しぐさ》をして見せた。そうして、さらに話しつづけた。
「私はもうそれがために平和も安息も得られないのです。あの幽霊はなんだか苦しそうなふうをして、何分間もつづけて私を呼ぶのです。……〈下にいる人! 見ろ、見ろ〉……そうして、私を差し招くのです。そうして、その小さいベルを鳴らすのです」
私はそれを引き取って言った。
「では、私がゆうべ来ていたときに、そのベルが鳴ったのですか。君はそれがために戸のところへ出て行ったのですか」
「そうです。二度も鳴ったのです」
「どうもおかしいな」と、私は言った。「その想像は間違っているようですね。あのとき私の眼はベルの方を見ていて、私の耳はベルの方に向いていたのだから、私のからだに異状がない限りは
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