アの口から見ると、トンネルの入り口の赤い灯のそばに立って、今お目にかけたように手を振っている者がある。その声は叫ぶような唸《うな》るような声で〈見ろ、見ろ〉という。つづいてまた〈おぅい、下にいる人! 見ろ、見ろ〉という。わたしは自分のランプを赤に直して、その者の呼ぶ方角へ駈けて行って〈どうかしましたか、何か出来《しゅったい》しましたか。いったいどこです〉とたずねると、その者はトンネルの暗やみのすぐ前に立っているのです。私はさらに近寄ってみると、不思議なことには、その者は袖を自分の眼の前にあてている。私はまっすぐに進んで行って、その袖を引きのけてやろうと手をのばすと、もうその形は見えなくなってしまったのです」
「トンネルの中へでもはいったかな」と、わたしは言った。
「そうではありません。私はトンネルの中へ五百ヤードも駈け込んで、わたしの頭の上にランプをさしあげると、前に見えたその者の影がまた同じ距離に見えるのです。そうして、トンネルの壁をぬらしている雫《しずく》が上からぽたぽたと落ちています。わたしは職務という観念があるので、初めよりも更に迅《はや》い速度でそこを駈け出して、自分の赤ランプでトンネルの入り口の赤い灯のまわりを見まわしたのち、その赤い灯の鉄梯子をつたって、頂上の展望台に登りました。それからまた降りて来て、そこまで駈けて戻りましたが、どうも気になるので、上り線と下り線とに電信を打って〈警戒の報知が来た。何か事故が起こったのか〉と問い合わせると、どちらからも同じ返事が来て〈故障なし〉……」
 この話を聞かされて、なんだか背骨がぞっとするような心持ちになったが、私はそれを堪《こら》えながら、そんなあやしい人影などはなにかの視覚のあやまりである。あらぬものの影を見たりするのは神経作用から起こるもので、病人などにはしばしばその例を見ることがあると話して聞かせた。また、そんな人びとのうちには、そういう苦悩を自覚し、それを自分で実験している人さえあるということをも話した。
「その叫び声というのも……」と、わたしは言った。「まあ、すこしのあいだ聴いていてご覧なさい。こんな不自然な谷間のような場所では、われわれが小さい声で話している時に、電信線が風にうなるのを聞くと、まるで竪琴《たてごと》を乱暴に鳴らしているように響きますからね」
 彼はそれに逆《さか》らわなかった。二人
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