今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです」
「え。私がそんなようなことを言ったかな」
「そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです」
「私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ」
「ほかに理由はないのですな」
「ほかに理由があるものですか」
「なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか」
「いいえ」
 彼は「さようなら」という代りに、持っている白い燈火をかかげた。
 私はあとから列車が追いかけて来るような不安な心持ちで、下り列車の線路のわきを通って自分の路を見つけた。その路はさきに下って来たときよりも容易に登ることが出来たので、さしたる冒険もなしに私の宿へ帰った。

 約束の時間を正確に守って、わたしは次の夜、ふたたびかの高低のひどい坂路に足をむけた。遠い所では、時計が十一時を打っていた。彼は白い燈火を掲げながら、例の低い場所に立って私を待っていた。わたしは彼のそばへ寄った時に訊《き》いた。
「わたしは呼ばなかったが……。もう話してもいいのですか」
「よろしいですとも……。今晩は……」と、彼はその手をさし出した。
「今晩は……」と、わたしも手をさし出して挨拶した。それから二人はいつもの小屋へはいってドアをしめて、火のほとりに腰をおろした。
 椅子に着くやいなや、彼はからだを前にかがめて、ささやくような低い声で言った。
「わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです」
「それは思い違いですよ」
「もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……」
「それは誰です」
「知りません」
「わたしに似ているのですか」
「わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……」
 わたしは彼の動作を見つめていると、それは激しい感情を苛立《いらだ》たせているような腕の働き方で、彼は「どうぞ退《ど》いてくれ」と叫ぶように言った。そうして、また話し出した。
「月の明かるい、ある晩のことでした。私がここに腰をかけていると〈おぅい、下にいる人!〉と呼ぶ声を聞いたのです。私はすぐに起《た》って、そのド
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