ってゆくのを見たような気がしたのです。ほんのいっとき、光るように通り過ぎて、間もなく消えたのですが、それは確かにクラリモンドであったのです。
ああ、実にそのとき、遠く離れたけわしい道の頂上――もう二度とここからは降りて来ないであろうと思われる所から、落ちつかない興奮した心持ちで彼女の住む宮殿の方へ眼をやりながら、雲のせいかその邸宅が間近く見えて、わたしをそこの王として住むように差し招いているかとも思う。――その時のわたしの心持ちを彼女は知っていたでしょうか。
彼女は知っていたに違いないと思うのです。それはわたしと彼女とのこころは、僅《わず》かの隙《すき》もないほどに深く結ばれていて、その清い彼女の愛が――寝巻のままではありましたが――まだ朝露の冷たいなかをあの敷石の高いところに彼女を立たせたに相違ないのです。
雲の影は宮殿をおおいました。いっさいの景色は家の屋根と破風《はふう》との海のように見えて、そのなかに一つの山のような起伏がはっきりと現われていました。
セラピオン師は騾馬を進めました。わたしも同じくらいの足どりで馬を進めて行くと、そのうちに道の急な曲がり角があって、とうとうSの町は、もうそこへ帰ることのできない運命とともに、永遠にわたしの眼から見えなくなってしまいました。
田舎のうす暗い野原ばかりを過ぎて、三日間の倦《う》み疲れた旅行ののち、わたしが預かることになっている、牡鶏《おんどり》の飾りのついている教会の尖塔が樹樹《きぎ》の間から見えました。それから、茅《かや》ぶきの家と小さい庭のある曲がりくねった道を通ったのち、あまり立派でもない教会の玄関の前に着いたのです。
入り口には、いくらかの彫刻が施してあるが、荒彫《あらぼ》りの砂岩石の柱が二、三本と、またその柱と同じ石の控え壁をもっている瓦ぶきの屋根があるばかり、ただそれだけのことでした。左の方には墓所があって、雑草がいっぱいに生いしげり、まん中あたりに鉄の十字架が建っています。右の方に司祭館が立っていて、あたかも教会の蔭になっているのです。それがまた極端に単純素朴なもので、囲いのうちにはいってみると、二、三羽の鶏《とり》がそこらに散らばっている穀物をついばんでいます。鶏は僧侶の陰気な習慣になれていると見えて、わたしたちが出て来ても別に逃げて行こうともしません。どこかで嗄《か》れたような啼《な》き声がきこえたかと思うと、老いさらばえた一匹の犬が近づいて来るのでした。
それは前《ぜん》の司祭の犬で、ただれた眼、灰色の毛、これ以上の年をとった犬はあるまいと思われるほどの衰えを見せていました。わたしは犬を軽くたたいてやりますと、何か満足らしい様子で、すぐにわたしのそばを通って行ってしまいました。そのうちに前の司祭の時代からここの留守番であったというひどい婆さんが出て来ました。老婆はうしろの小さい客間へわたしたちを案内して、今後もやはり自分を置いてもらえるかということを尋《たず》ねるのです。彼女も、犬も鶏も、前の司祭が残したものはなんでも皆そのままに世話をしてやると答えますと、彼女は非常に喜びました。セラピオン師はこれだけの小さい世帯を保ってゆくために、彼女の望むだけの金をすぐに出してやったのであります。
さて、それからまる一年のあいだ、わたしは自分の職務について、十分に行き届いた忠実な勤めをいたしました。祈祷と精進はもちろん、病める者はわが身の痩せるような思いをしても救済し、その他の施しなどについても、わたし自身の生計《くらし》に困るほどまでに尽力しました。しかもわたしは自分のうちに、大きい充《み》たされないものがありました。神の恵みは、わたしには与えられないように思われました。この神聖な布教の職にあるものに湧きでるはずの幸福というものが、一向に分からなくなりました。わたしの心は遠い外に行っていたのです。クラリモンドの言葉が今もわたしの口唇《くちびる》に繰り返されていたのでした。
ああ、皆さん。このことをよく考えてみて下さい。わたしがただの一度、眼をあげて一人の女人《にょにん》を見て、その後何年かのあいだ、最もみじめな苦悩をつづけて、わたしの一生の幸福が永遠に破壊されたことを考えてみてください。しかし私はこの敗北状態について、また霊的には勝利のごとく見えながら、更におそろしい破滅におちいったことについて、くどくどと申し上げますまい。それからすぐに事実のお話に移りたいと思います。
三
ある晩のことでした。わたしの司祭館のドアの鈴《ベル》が長くはげしく鳴りだしたのです。老婆が立ってドアをあけると、一つの男の影が立っていました。その男の顔色はまったく銅色《あかがねいろ》をしておりまして、身には高価な外国の衣服をつけ、帯には短剣を佩《お》びているのが、老婆のバルバラの提灯で見えました。老婆も一度は驚いて怖れましたが、男は彼女を押し鎮めて、わたしの神聖な仕事についてお願いに来たのであるから、わたしに会わせてもらいたいというのです。
わたしが二階から降りようとした時に、老婆は彼を案内して来ました。この男はわたしに向かって、非常に高貴な彼の女主人が重病にかかっていて、臨終のきわに僧侶に逢いたがっていることを話したので、わたしはすぐに一緒に行くからと答えて、臨終塗油式に必要な聖具をたずさえて、大急ぎで二階を降りて行きました。
夜の暗さと区別《わかち》がないほどに黒い二頭の馬が門外に待っていました。馬はあせってあがいていて、鼻から大きい息をすると、白い煙りのような水蒸気が胸のあたりを掩《おお》っていました。男は鐙《あぶみ》をとって、わたしをまず馬の上にのせてくれましたが、彼は鞍の上に手をかけたかと思うと忽《たちま》ちほかの馬に乗り移って、膝で馬の両腹を押して手綱《たづな》をゆるめました。
馬は勇んで、矢のように走り出しました。わたしの馬は、かの男が手綱を持っていてくれましたので、彼の馬と押し並んで駈けました。全くわたしたちはまっしぐらに駈けました。地面はまるで青黒い長い線としか見えないようにうしろへ流れて行き、わたしたちの駈け通る両側の黒い樹樹《きぎ》の影は混乱した軍勢のようにざわめきます。真っ暗な森を駈け抜ける時などは、一種の迷信的の恐怖のために、総身《そうみ》に寒さを覚えました。またある時は馬の鉄蹄《てってい》が石を蹴って、そこらに撒《ま》き散らす火花の光りが、あたかも火の路を作ったかと疑われました。
誰でも、夜なかのこの時刻に、わたしたちふたりがこんなに疾駆《しっく》するのを見たらば、悪魔に騎《の》った二つの妖怪と間違えたに相違ありますまい。時どきにわれわれの行く手には怪しい火がちらちらと飛びめぐり、遠い森には夜の鳥が人をおびやかすように叫び、また折りおりは燐光のような野猫の眼の輝くのを見ました。
馬は鬣《たてがみ》をだんだんにかき乱して、脇腹には汗をしたたらせ、鼻息もひどくあらあらしくなってきます。それでも馬の走りがゆるやかになったりすると、案内者は一種奇怪な叫び声をあげて、またもや馬を激しく跳《おど》らせるのでした。
旋風《つむじかぜ》のような疾走がようやく終わると、多くの黒い人の群れがおびただしい灯に照らされながら、たちまち私たちの前に立ち現われて来ました。わたしたちは大きい木の吊り橋を音を立てて渡ったかと思うと、二つの巨大な塔のあいだに黒い大きい口をあいている、円《まる》屋根ふうのおおいのある門のうちに乗り入れました。わたしたちがはいると、城のなかは急にどよめきました。松明《たいまつ》をかかげた家来どもが各方面から出て来まして、その松明の火はあちらこちらに高く低く揺れています。わたしの眼はただこの広大な建物に戸惑《とまど》いしているばかりであります。幾多の円柱、歩廊、階段の交錯、その荘厳《そうごん》なる豪奢、その幻想的なる壮麗、すべてお伽噺《とぎばなし》にでもありそうな造りでした。
そのうち黒ん坊の召仕《ページ》、いつかクラリモンドからの手紙をわたしに渡した召仕が眼に入りました。彼はわたしを馬から降ろそうとして近寄ると、頸《くび》に金のくさりをかけた黒いビロードの衣服をつけた執事らしい男が、象牙《ぞうげ》の杖をついて私に挨拶するために出て来ました。見ると、涙が眼から頬を流れて、彼の白い髯《ひげ》をしめらせています。彼は行儀よく頭《かしら》をふりながら、悲しそうに叫びました。
「遅すぎました、神父さま。遅すぎましてございます。あなたが遅うございましたので、あなたに霊魂のお救いを願うことは出来ませんでした。せめてはあのお気の毒な御遺骸にお通夜を願います」
かの老人はわたしの腕をとって、死骸の置いてある室《へや》へ案内しました。わたしは彼より烈《はげ》しく泣きました。死人というのは余人《よじん》でなく、わたしがこれほどに深く、また烈しく恋していたクラリモンドであったからです。
寝台の下に祈祷台が設けられてありました。銅製の燭台に輝いている青白い火焔《ほのお》は、あるかなきかの薄い光りを暗い室内に投げて、その光りはあちらこちらに家具や蛇腹《じゃばら》の壁などを見せていました。
机の上にある彫刻した壺の中には、あせた白|薔薇《ばら》がただ一枚の葉を残しているだけで、花も葉もすべて香りのある涙のように花瓶の下に散っています。毀《こわ》れた黒い仮面《めん》や扇、それからいろいろの変わった仮装服が腕椅子の上に置いたままになっているのを見ると、死がなんの知らせもなしに、突然にこの豪奢な住宅に入り込んで来たことを思わせました。
わたしは寝台の上に眼をあげる勇気もなく、ひざまずいて亡き人の冥福を熱心に祈り始めました。神が彼女の霊と私とのあいだに墳墓を置いて、この後《のち》わたしの祈祷のときに、死によって永遠に聖《きよ》められた彼女の名を自由に呼ぶことが出来るようにして下されたことについて、わたしはあつく感謝しました。
しかし私のこの熱情はだんだんに弱くなって来て、いつの間にか空想に墜《お》ちていました。この室《へや》には、すこしも死人の室とは思われないところがあったのです。私はこれまでに死人の通夜にしばしば出向きまして、その時にはいつも気が滅入《めい》るような匂いに慣れていたものですが、この室では――実はわたしは女の媚《なま》めかしい香りというものを知らないのですが――なんとなくなま温かい、東洋ふうな、だらけたような香りが柔らかくただよっているのです。それにあの青白い灯の光りは、もちろん歓楽のために点《つ》けられていたのでしょうが、死骸のかたわらに置かれる通夜の黄いろい蝋燭の代りをなしているだけに、そこには黄昏《たそがれ》と思わせるような光りを投げているのです。
クラリモンドが死んで、永遠にわたしから離れる間際《まぎわ》になって、わたしが再び彼女に逢うことが出来たという不思議な運命について、わたしは考えました。そうして、苦しく愛惜の溜め息をつきました。すると、誰かわたしの後《うしろ》の方で、同じように溜め息をついているのを感じたのです。驚いて振り返って見ましたが、誰もいません。自分の溜め息の声が、そう思わせるように反響したのでした。わたしは見まいとして、その時までは心を押さえていたのですが、とうとう死の床の上に眼を落としてしまいました。縁《ふち》に大きい花模様があって、金糸銀糸の総《ふさ》を垂れている真っ紅な緞子《どんす》の窓掛けをかかげて私は美しい死人をうかがうと、彼女は手を胸の上に組み合わせて、十分にからだを伸ばして寝ていました。
彼女はきらきら光る白い麻布《あさぬの》でおおわれていましたが、それが壁掛けの濃い紫色とまことにいい対照をなして、その白麻は彼女の優美なからだの形をちっとも隠さずに見せている綺麗な地質の物でありました。彼女のからだのゆるやかな線は白鳥の首のようで、実に死といえどもその美を奪うことは出来ないのでした。彼女の寝ている姿は、巧みな彫刻家が女王の墓の上に置くために彫りあげた雪花石膏の像のようでも
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング