たましいをこめた、ただひとつの原稿を何かのために火に焚《や》こうとしている時でも、この時における彼女ほどには、あきらめ切れないような絶望の顔を見せないであろうと思われました。彼女の愛らしい顔にすっかり血の色が失せて、大理石よりも白くなりました。美しい二つの腕は筋肉のゆるんだように、体の両方に力なく垂れてしまいました。柔順《すなお》な足も今は自由にならなくなって、彼女は何か力と頼むべき柱をさがしていました。
わたしはといえば、これも死人のような青白い色をして、教会のドアの方へよろめいて行きましたが、あのクリストの磔刑《はりつけ》の像よりも更に血の汗を浴びて、まるで首を絞《し》められている人のように感じました。円天井はわたしの肩の上へひら押しに落ちかかって来て、わたしの頭だけでこの円天井のすべての重みを支《ささ》えているようでありました。
ちょうど、わたしが教会の閾《しきい》をまたごうとする時でした。突然に一つの手がわたしの手を握ったのです。それは女の手です。わたしはこれまでに女の手などにふれたことはありませんでしたが、その時わたしに感じたのは蛇の肌にさわったような冷たい感じで、その時の感じはいまだに掌《て》の上に、熱鉄の烙印《やきいん》を押したように残っています。それは彼女の手であったのです。
「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……。どうしたということです」と、彼女は低い声を強めて言って、すぐに人込みのなかに消えて行ってしまいました。
老年の司教がわたしのそばを通りかかりました。彼は何かわたしを冷笑するようなけわしい眼を向けて行きました。わたしはよほど取りみだした顔つきをしていたらしく、顔を赤くしたり、青くしたりして、まぶしい光りが眼の前にきらめくように感じました。そのうちに、一人の友達がわたしに同情して、わたしの腕をとって連れ出してくれました。わたしはもう誰かに扶《たす》けられないでは、学寮へ帰ることが出来ないくらいでした。
町の角で、わたしの若い友達が何かよその方へ気をとられて振りむいている刹那《せつな》に、風変わりの服装をした黒人の召仕《ページ》がわたしに近づいて来て、歩きながらに金色のふちの小さい手帳をそっと渡して、それをかくせという合図をして行きました。わたしはそれを袖のなかに入れて、わたしの居間でただひとりになるまで隠しておきました。
独《ひと》りになってから、その手帳の止めを外すと、中には一枚の紙がはいっていて、「コンティニ宮にて、……クラリモンド」と、わずかに書いてありました。[#「ありました。」は底本では「ありました」]
二
わたしはその当時、世間のことはなんにも知りませんでした。名高いクラリモンドのことなども知っていません。コンティニ宮がどこにあるかさえも、まったく見当《けんとう》がつきませんでした。わたしはいろいろに想像をたくましくしてみましたが、実のところ、もう一度逢うことが出来れば、彼女が高貴な女であろうと、または娼婦のたぐいであろうと、わたしはそんなことを気にかけてはいないのでした。
わたしの恋はわずかいっときのあいだに生まれたのですが、もう打ち消すことの出来ないほどに根が深くなってゆきました。わたしはもう、まったく取りみだしてしまって、彼女が触れたわたしの手に接吻したり、幾時間ものあいだに繰り返して彼女の名を呼んだりしました。わたしは彼女の姿を目のあたりにはっきりと認めたいがために、眼をとじてみたりしました。
わたしは教会の門のところで、わたしの耳にささやいた彼女の言葉を繰り返しました。「不幸なかたね。ほんとうに不幸なかた……どうしたということです」
――わたしはそうしているうちに、とうとう自分の地位の恐ろしさがわかるようになりました。暗い忌《いま》わしい束縛――その生活のうちに、自分がはいっていったということがわかるようになりました。
僧侶の生活――それは純潔にして身を慎んでいること、恋をしてはならないこと、男女の性別や老若の区別をしてはならないこと、すべて美しいものから眼をそむけること、人間の眼を抜き取ること、一生のあいだ教会や僧房《そうぼう》の冷たい日影に身をかがめていること、死人の家以外を訪問してはならないこと、見知らない死骸のそばに番をしていること、いつも喪服にひとしい法衣《ころも》を自分ひとりで着て、最後にはその喪服がその人自身の棺の掩《おお》いになるということであります。
もう一度クラリモンドに逢うには、どうしたらいいかと思いました。町には誰も知っている人がないので、学寮を出る口実がなかったのです。わたしはもうこんな所にいっときもじっとしてはいられないと思いました。そこにいたところが、ただわたしはこれから職に就く新しい任命を待っているばかりです。
窓をあけようと思って、貫木《かんぬき》に手をかけましたが、それは地面から非常に高い所にありますので、別に梯子《はしご》を見つけない限りは、この方法で逃げ出すことは無駄であることが分かりました。その上に、どうしても夜ででもなければ、そこから降りられそうもないのです。それからまた、あの迷宮のように複雑な街の様子も分かりかねるのでありました。これらの困難は、他人にとってはさほどむずかしいとは思われないのでしょうが、わたしにとっては非常に困難の仕事であったのです。それというのは、わたしはつい前の日に、生まれて初めて恋に落ちたばかりの学徒で、経験もなければ金も持たない、衣服も持たない、あわれな身の上であったからです。
わたしは盲目にひとしい自分にむかって、ひとりごとを言いました。
「ああ、もし自分が僧侶でなかったなら、毎日でもあの女《ひと》に逢うことも出来る。そうして、あの女の恋人となり、あの女の夫になっていられるのだが……。こんな陰気な喪服の代りに、絹やビロードの着物を身にまとって、金のくさりや剣をつけて、ほかの若い騎士たちのように美しい羽毛をつけていられるのに……。髪もこんなぶざまな剃髪《トンシュア》などにしていないで、襟まで垂れている髪を波のようにちぢらせて、立派に伸びた頤鬚《あごひげ》までもたくわえて、優雅な風采でいられるのに……」
しかも、かの聖壇の前における一時間、その時のわずかな明晰《めいせき》な言葉が、永久にわたしをこの世の人のかずから引き離してしまって、わたしは自分の手で自分の墓の石蓋《いしぶた》をとじ、自分の手で自分の牢獄の門をとじたのでありました。
わたしはまた窓へ行って見ると、空はうららかに青く晴れて、すべての樹木はみな春のよそおいをして、自然は皮肉な歓楽の行進をつづけています。そこには、多くの人びとが往来して、姿のよい若い紳士や、美しい淑女たちが二人連れで、森や花園の方へそぞろ歩きをしています。元気のいい青年がおもしろそうに酔って歌っています。すべてが快活、生命、躍動の一幅の絵画で、わたしの悲哀と孤独とくらべると実にひどい対照をなしているのです。門の階段のところには、若い母が、自分の子供と遊んでいます。母はまだ乳のしずくの残っている可愛らしい薔薇《ばら》色の口に接吻をしたり、子供を喜ばせるためにいろいろあやしてみたり、母だけしか知らないような種じゅ様ざまな尊い仕科《しぐさ》をしています。その子供の父は腕を組んでにこやかに微笑《ほほえ》みながら、少し離れたところに立ってその可愛らしい仲間をながめています。
わたしはもうこんな楽しい景色を見るに堪《た》えられなくなって、手あらく窓をしめきって、急いで床のなかに飛び込んでしまいました。わたしのこころは、はげしい嫉妬と嫌悪《けんお》でいっぱいになって、十日も飢えている虎のように、わが指を噛みました。
こうして私はいつまで寝台にいたか、自分でも覚えませんでしたが、床のなかで発作的に苦しみ悶《もだ》えている間に、突然この部屋のまんなかに僧院長のセラピオン師がまっすぐに突っ立って、注意ぶかくわたしを見つめているのに気がつきました。
わたしは非常に恥かしくなって、おのずと胸の方へ首を垂れて、両手で顔を掩いかくしたのです。セラピオン師はしばらく無言で立っていましたが、やがて私に言いました。
「ロミュオー君。何か非常に変わったことがあなたの身の上に起こっているようですな。あなたの様子はどうも理解できない。あなたはいつも沈着で敬虔《けいけん》な温順《すなお》な人物であるのに、どうしてそんなに、野獣などのように怒り狂っているのです。気をおつけなさい。悪魔の声に耳を傾けてはならない。恐れてはならない。勇気を失ってはなりませんぞ。そんな誘惑に出逢った場合には、何よりも確固たる信念と注意とに頼らなくてはいけません。さあ、しっかりしてよくお考えなさい。そうすれば悪魔の霊はきっとあなたから退散してしまいます」
セラピオン師の言葉で、わたしは我れにかえって、いくぶんか心が落ちついて来ました。彼は更に言いました。
「あなたはCという所の司祭に就くことになったので、それを知らせに来たのです。そこの僧侶が死んだので、あなたがそこへ就職するように司教さまから命ぜられました。明日すぐに出発できるように用意してもらいたいのです」
彼女に再び逢うことなしに、明日ここを離れて行き、今まで二人のあいだを隔てる障《さわ》りある上に、さらに二人の仲をさくべき関所を置くことになったら、奇蹟でもない限りは彼女に逢うことは永遠にできなくなるのです。手紙を書いてやることは所詮《しょせん》できないことです。誰にたのんでその手紙を渡していいか、それさえも分からない。僧職にある身が誰にこんなことを打ち明けていいか、誰を信じていいか。それが私にはまったく堪《た》えられないほどの苦労でありました。
翌あさ、セラピオン師はわたしを連れに来たのです。旅行用の貧しい手鞄などを乗せている二匹の騾馬《らば》が門前に待っていました。セラピオン師は一方の騾馬に乗り、わたしは型のごとくに他の騾馬に乗りました。
町の路《みち》みちを通るとき、わたしはもしやクラリモンドに逢いはしないかと、家いえの窓や露台に気をつけて見ました。朝が早かったので、街《まち》もまだほとんど起きてはいませんでした。わたしは自分の通りかかった邸宅という邸宅の窓の鎧戸《よろいど》やカーテンを見透すように眼をくばりました。
セラピオン師はわたしの態度を別に疑いもせず、ただ私がそれらの邸宅の建築を珍らしがっているのだと思って、わたしがなお十分に見ることが出来るように、わざと自分の馬の歩みをゆるやかにしてくれました。わたしたちはついに町の門を過ぎて、前方にある丘をのぼり始めました。その丘の頂上にのぼりつめた時、わたしはクラリモンドの住む町に最後の一瞥《いちべつ》を送るために見返りました。
町の上には、大きい雲の影がおおい拡がっておりました。その雲の青い色と赤い屋根との二つの異った色が一つの色に溶《と》け合って、新しく立ち昇る巷《ちまた》の煙りが白い泡のように光りながら、あちらこちらにただよっています。ただ眼に見えるものは一つの大きい建物で、周囲の建物を凌《しの》いで高くそびえながら、水蒸気に包まれて淡《あわ》く霞んでいましたが、その塔は高く清らかな日光を浴びて美しく輝いていました。それは三マイル以上も離れているのに、気のせいか、かなりに近く見えるのでした。殊《こと》にその建物は、塔といい、歩廊といい、窓の枠飾りといい、つばめの尾の形をした風見《かざみ》にいたるまで、すべていちじるしい特長を示していました。
「あの日に照りかがやいている建物は、なんでございます」
わたしはセラピオン師にたずねました。彼は手をかざして眼の上をおおいながら、わたしの指さす方を見て答えました。
「あれはコンティニ公が、娼婦のクラリモンドにあたえられた昔の宮殿です。あすこでは恐ろしいことが行なわれているのです」
その瞬間でした。それはわたしの幻想であったか、それとも事実であったか分かりませんが、かの建物の敷石の上に、白い人の影のようなものがすべ
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