あり、または静かに降る雪に隈なくおおわれながら睡っている少女のようでもありました。
 わたしはもう祈祷《いのり》をささげに来た人としての謹慎の態度を持ちつづけていられなくなりました。床のあいだにある薔薇は半ばしぼんでいるのですが、その強烈な匂いはわたしの頭に沁み透って酔ったような心持ちになったので、何分《なにぶん》じっとしていられなくなって、室内をあちらこちらと歩きはじめました。そうして、行きかえりに寝台の前に立ちどまって、その屍衣《しい》を透して見える美しい死骸のことを考えているうちに、途方《とほう》もない空想が私の頭のなかに浮かんで来ました。
 ――彼女はほんとうに死んだのではないかもしれない。あるいは自分をこの城内に連れ出して、恋を打ち明ける目的のために、わざと死んだふりをしているのではないかとも思いました。またある時は、あの白い掩《おお》いの下で彼女が足を動かして、波打った長い敷布《シーツ》のひだを幽《かす》かに崩したようにさえ思われました。
 わたしは自分自身に訊《き》いたのです。
「これはほんとうにクラリモンドであろうか。これが彼女だという証拠はどこにある。あの黒ん坊の召仕《ページ》は、あの時ほかの婦人の使いで通ったのではなかったか。実際、自分はひとりぎめで、こんな気違いじみた苦しみをしているのではあるまいか」
 それでも、わたしの胸は烈しい動悸をもって答えるのです。
「いや、これはやっぱり彼女だ。彼女に相違ない」
 わたしは再び寝台に近づいて、疑問の死骸に注意ぶかい眼をそそぎました。ああ、こうなったら正直に申さなければなりますまい。彼女の実によく整ったからだの形、それは死の影によって更に浄《きよ》められ、さらに神聖になっていたとはいえ、世に在りし時よりも更に肉感的になって、誰が見てもただ睡っているとしか思われないのでした。わたしはもう、葬式のためにここへ来たことを忘れてしまって、あたかも花婿が花嫁の室にはいって来て、花嫁は羞《はず》かしさのために顔をかくし、さらに自分全体を包み隠してくれる紗《ベール》をさがしているというような場面を想像しました。
 わたしは悲歎に暮れていたとはいえ、なお一つの希望にかられて、悲しさと嬉しさとにふるえながら、彼女の上に身をかがめて、掩いのはしをそっとつかんで、彼女に眼を醒まさせないように息をつめてその掩いをはがしました。わたしは烈しい動悸を感じ、こめかみに血ののぼるのを覚え、重い大理石の板をもたげた時のように、ひたいに汗の流れるのを知りました。
 そこに横たわっているのは、まさしくクラリモンドでした。わたしが前にわたしの僧職授与式の日に教会で見た時と少しも違わない、愛すべき彼女でありました。死によって、彼女はさらに最後の魅力を示していました。青白い彼女の頬、やや光沢《つや》のあせた肉色のくちびる、下に垂れた長いまつげ、白い皮膚にきわだって見えるふさふさした金色の髪、それは静かな純潔と、精神の苦難とを示して、なんともいえない蠱惑《こわく》の一面を現わしています。彼女はたけ長い解《と》けた髪に小さい青白い花をさして、それを光りある枕の代りとし、豊かな捲《ま》き毛はさらに露《あら》わなる肩を包んでいます。彼女の美しい二つの手は天使《エンジェル》の手よりも透き通って、敬虔《けいけん》な休息と静粛な祈りの姿を示していましたが、その手にはまだ真珠の腕環がそのままに残っていて、象牙のようななめらかな肌や、その美しい形の丸みは、死の後までも一種の妖艶をとどめていました。
 わたしはそれから言葉に尽くせない長い思索に耽《ふけ》りましたが、彼女の姿を見守っていればいるほど、どうしても彼女はこの美しいからだを永久に捨てたとは思えないのでした。見つめていると、それは気のせいか、それともランプの光りのせいかわかりませんが、血の気のない顔の色に血がめぐり始めたように思われました。わたしはそっと軽く彼女の腕に手をあてますと、冷たくは感じましたが、いつか教会の門でわたしの手にふれた時ほどには冷たくないような気がしました。わたしは再び元の位置にかえって、彼女の上に身をかがめましたが、わたしの熱い涙は彼女の頬をぬらしました。
 ああ、なんという絶望と無力の悲しさでありましょう。なんとも言いようのない苦しみを続けながら、わたしはいつまでも彼女を見つめていたことでしょう。わたしは自分の全生涯の生命をあつめて彼女にあたえたい。わたしの全身に燃えている火焔《ほのお》を彼女の冷たい亡骸《なきがら》にそそぎ入れたいと、無駄な願いを起こしたりしました。
 夜は更《ふ》けてゆきました。いよいよ彼女と永遠のわかれが近づいたと思った時、わたしはただひとりの恋人であった彼女に、最後の悲しい心をこめた、たった一度の接吻《せっぷん》をしないではいられませんでした――。
 おお、奇蹟です。熱烈に押しつけた私のくちびるに、わたしの息とまじって、かすかな息がクラリモンドの口から感じられたのです。彼女の眼があいて来ました。それは以前のような光りを持っていました。それから深い溜め息をついて、二つの腕をのばして、なんともいわれない喜びの顔色をみせながら私の頸《くび》を抱いたのです。
「ああ、あなたはロミュオーさま……」
 彼女は竪琴《たてごと》の音《ね》の消えるような優しい声で、ゆるやかにささやきました。
「どこかお悪かったのですか。わたしは長い間お待ち申していたのですが、あなたが来て下さらないので死にました。でも、もう今は結婚のお約束をしました。わたしはあなたに逢うことも出来ます。お訪ね申すことも出来ます。さようなら、ロミュオーさま、さようなら。私はあなたを愛しています。わたしが申し上げたかったのは、ただこれだけです。わたしは今あなたが接吻をして下すったからだを生かして、あなたにお戻し申します。わたしたちはすぐにまたお逢い申すことが出来ましょう」
 彼女の頭《かしら》はうしろに倒れましたが、その腕はまだわたしを引き止めるかのように巻きついていました。突然に烈しい旋風《つむじかぜ》が窓のあたりに起こって、室《へや》のなかへ吹き込んで来ました。
 白薔薇に残っていた、ただ一枚の葉はちっとの間、枝のさきで蝶《ちょう》のようにふるえていましたが、やがてその葉は枝から離れて、クラリモンドの霊を乗せて、窓から飛んで行ってしまいました。ランプの灯は消えました。私はおぼえず死骸の胸の上に俯伏《うつぶ》しました。

       四

 わたしがわれに返った時、わたしは司祭館の小さな部屋のなかに寝ていました。前の司祭の時から飼ってあるかの犬が、掛け蒲団の外に垂れているわたしの手をなめていました。あとになって知ったのですが、わたしはそのままで三日も寝つづけていたので、その間に少しの呼吸《いき》もせず、生きている様子はちっともなかったそうです。老婆のバルバラの話によると、わたしが司祭館を出発した晩にたずねて来たかの銅色《あかがねいろ》の男が、翌あさ無言でわたしを担《かつ》いで来て、すぐに帰って行ったということです。しかし私がクラリモンドを再び見たかの城のことについて、この近所では誰もその話を知っている者はありませんでした。
 ある朝、セラピオン師はわたしの部屋へたずねて来ました。彼はわたしの健康のことを偽善的な優しい声で訊《き》きながら、しきりに獅子《ライオン》のような大きい黄いろい眼を据えて、測量鉛のように私のこころのうちへ探りを入れていましたが、突然に澄んだはっきりした声で話しました。それはわたしの耳には最後の審判の日の喇叭《ラッパ》のようにひびいたのです。
「かの有名な娼婦のクラリモンドが、二、三日前に八日八夜もつづいた酒宴の果てに死にました。それは魔界ともいうべき大饗宴で、バルタザールやクレオパトラの饗宴をそのままの乱行が再びそこに繰り返されたのです。ああ、われわれはなんという時世に生まれ合わせたのでしょう。言葉は何を言っているのか分からないような黒ん坊の奴隷が客の給仕をしましたが、どうしても私にはこの世の悪魔としか見えませんでした。そのうちのある人びとの着ている晴れ衣《ぎ》などは、帝王の晴れ衣にも間に合いそうな立派なものでした。かのクラリモンドについては、いろいろの不思議な話が伝えられていますが、その愛人はみな怖ろしい悲惨な終わりを遂げているようです。世間ではあの女のことを発塚鬼《グール》だとか、女の吸血鬼《ヴァンパイヤ》だとか言っているようですが、わたしはやはり悪魔であると思っています」
 セラピオン師はここで話をやめて、その話が私にどういう効果をあたえたかということを、以前よりもいっそう深く注意し始めました。わたしはクラリモンドの名を聞いて、驚かずにはいられませんでした。それは彼女が死んだという知らせの上に、さらに私を苦しめたのは、その事件がさきの夜に私が見た光景と寸分たがわない偶然の暗合であります。わたしはその煩悶《はんもん》や恐怖を出来るだけ平気に粧《よそお》おうとしましたが、どうしても顔には現われずにはいませんでした。セラピオン師は不安らしい嶮《けわ》しい眼をして私を見つめていましたが、また、こう言いました。
「わたしはあなたに警告しますが、あなたは今や奈落《ならく》のふちに足をのせて立っているのです。悪魔の爪は長い。そうして、かれらの墓はほんとうの墓ではない場合があります。クラリモンドの墓石は三重にも蓋《ふた》をしておかなければなりません。なぜというに、もし世間の話が本当であるとすれば、彼女が死んだのは今度が初めてでないのです。ロミュオー君、どうかあなたの上に神様のお守りがあるように祈ります」
 こう言って、セラピオン師は静かに戸口の方へ出て行きました。間もなく彼はSの町へ帰りましたが、わたしはそれを見送りもしませんでした。
 わたしはそののち健康を回復して、型のごとくに職務を始めました。クラリモンドの記憶と、セラピオン師の言葉とは絶えず私の心に残っていたのですが、セラピオン師の言った不吉な予言が真実として現われるような、特別の事件も別に知らなかったのでした。そこでわたしは、セラピオン師やわたしの恐怖にはやはり誇張があったのだと思うようになりました。ところがある夜、不思議な夢を見たのです。
 わたしはその夜まだ本当に寝入らないとき、寝室のカーテンのあく音を聞きました。わたしはその環がカーテンの横棒の上を烈しくすべったのに気がついて、急いで肘《ひじ》で起き上がると、わたしの前に一人の女がまっすぐに立っているのを見たのです。
 彼女はその手に、墓場でよく見る小さいランプを持っていましたが、その指は薔薇色に透き通っていて、指さきから腕にかけてだんだんに暗くほの白く見えているのです。彼女の身につけているものは、ただ一つ、死の床に横たわっている時におおわれていた白い麻布でありました。彼女はそんな貧しいふうをしているのが恥かしそうに、胸のあたりを掩おうとしましたが、優しい手には充分にそれが出来ませんでした。ランプの青白い灯に照らされて、彼女のからだの色も、身にまとっているものも、すべて一つの真っ白な色に見えていましたが、一つの色に包まれているだけに、彼女のからだのすべての輪郭はよくあらわれて、生きている人というよりは、浴《ゆあ》みしている昔の美女の大理石像を思わせました。
 死生を問わず、彫像であろうと、生きた女であろうと、彼女の美には変わりはありませんが、ただ多少その緑の眼に光りがないのと、かつては真紅《しんく》の色をなしていた口が、頬の色と同じように弱い薔薇色をしているだけの相違でありました。彼女はその髪に小さい青い花をさしていましたが、ほとんどその葉を振るい落として花も枯れしぼんでいました。しかし、それは少しも彼女の優しさをさまたげず、こんな冒険をあえてして、不思議な身装《みなり》でこの部屋にはいって来ても、ちっとも私を恐れさせないほどの美しい魅力をそなえているのでした。
 彼女はランプを机の上に置いて、わたしの寝台の下に坐って私の方へ頭《
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