した。
「遅すぎました、神父さま。遅すぎましてございます。あなたが遅うございましたので、あなたに霊魂のお救いを願うことは出来ませんでした。せめてはあのお気の毒な御遺骸にお通夜を願います」
かの老人はわたしの腕をとって、死骸の置いてある室《へや》へ案内しました。わたしは彼より烈《はげ》しく泣きました。死人というのは余人《よじん》でなく、わたしがこれほどに深く、また烈しく恋していたクラリモンドであったからです。
寝台の下に祈祷台が設けられてありました。銅製の燭台に輝いている青白い火焔《ほのお》は、あるかなきかの薄い光りを暗い室内に投げて、その光りはあちらこちらに家具や蛇腹《じゃばら》の壁などを見せていました。
机の上にある彫刻した壺の中には、あせた白|薔薇《ばら》がただ一枚の葉を残しているだけで、花も葉もすべて香りのある涙のように花瓶の下に散っています。毀《こわ》れた黒い仮面《めん》や扇、それからいろいろの変わった仮装服が腕椅子の上に置いたままになっているのを見ると、死がなんの知らせもなしに、突然にこの豪奢な住宅に入り込んで来たことを思わせました。
わたしは寝台の上に眼をあげる勇気
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