ってゆくのを見たような気がしたのです。ほんのいっとき、光るように通り過ぎて、間もなく消えたのですが、それは確かにクラリモンドであったのです。
 ああ、実にそのとき、遠く離れたけわしい道の頂上――もう二度とここからは降りて来ないであろうと思われる所から、落ちつかない興奮した心持ちで彼女の住む宮殿の方へ眼をやりながら、雲のせいかその邸宅が間近く見えて、わたしをそこの王として住むように差し招いているかとも思う。――その時のわたしの心持ちを彼女は知っていたでしょうか。
 彼女は知っていたに違いないと思うのです。それはわたしと彼女とのこころは、僅《わず》かの隙《すき》もないほどに深く結ばれていて、その清い彼女の愛が――寝巻のままではありましたが――まだ朝露の冷たいなかをあの敷石の高いところに彼女を立たせたに相違ないのです。
 雲の影は宮殿をおおいました。いっさいの景色は家の屋根と破風《はふう》との海のように見えて、そのなかに一つの山のような起伏がはっきりと現われていました。
 セラピオン師は騾馬を進めました。わたしも同じくらいの足どりで馬を進めて行くと、そのうちに道の急な曲がり角があって、とうとうSの町は、もうそこへ帰ることのできない運命とともに、永遠にわたしの眼から見えなくなってしまいました。
 田舎のうす暗い野原ばかりを過ぎて、三日間の倦《う》み疲れた旅行ののち、わたしが預かることになっている、牡鶏《おんどり》の飾りのついている教会の尖塔が樹樹《きぎ》の間から見えました。それから、茅《かや》ぶきの家と小さい庭のある曲がりくねった道を通ったのち、あまり立派でもない教会の玄関の前に着いたのです。
 入り口には、いくらかの彫刻が施してあるが、荒彫《あらぼ》りの砂岩石の柱が二、三本と、またその柱と同じ石の控え壁をもっている瓦ぶきの屋根があるばかり、ただそれだけのことでした。左の方には墓所があって、雑草がいっぱいに生いしげり、まん中あたりに鉄の十字架が建っています。右の方に司祭館が立っていて、あたかも教会の蔭になっているのです。それがまた極端に単純素朴なもので、囲いのうちにはいってみると、二、三羽の鶏《とり》がそこらに散らばっている穀物をついばんでいます。鶏は僧侶の陰気な習慣になれていると見えて、わたしたちが出て来ても別に逃げて行こうともしません。どこかで嗄《か》れたような啼《な》
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