酷に引っぱたかれるのだから助からない。馬は途中で倒れてしまったというわけだ。
 馭者も困って馭者台から飛び降りた。われわれもひとまず車から出る。馭者はもちろん、かの青年も僕も手伝って、近所の農家の井戸から冷たい水を汲んで来て、馬に飲ませる、馬のからだにぶっかける。馭者は心得ているので、どこからか荒むしろのようなものを貰って来て、馬の背中に着せてやる。そんなことをして騒いでいるうちに、馬はどうにかこうにか再び起き上がったので、涼しい木のかげへ引き込んでしばらく休ませてやる。われわれも汗をふいてまずひと息つくという段になると、かの青年は俄かにあっと叫んだ。
「畜生[#「畜生」は底本では「蓄生」]。また逃げたか。」
 誰が逃げたのかと思って見かえると、かの芸妓らしい女がいつの間にか姿をかくしたのだ。われわれが馬の介抱に気をとられて、夢中になって騒いでいるうちに、彼女《かれ》は何処へか消え失《う》せてしまったらしい。なぜ逃げたのか、なぜ隠れたのか、僕には勿論わからなかったが、青年は一種悲痛のような顔色をみせて舌打ちした。そうして、これからどうしょうかと思案しているらしかったが、やがて馭者にむか
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