なかった。この通り魚籠《びく》は空《から》だが、しかしこんなものを取って来たといって、魚籠のなかから何か草のようなものを掴み出してみせたので、わたくしもうっかり覗いてみますと、それは川に浮いている幽霊藻なんです。あなたも御存知でしょう、幽霊藻を……。」
「幽霊藻……。知っています。」と僕は暗いなかでうなずいた。
「あらいやだと思って、わたくしは思わず身をひこうとすると、市野さんは冗談半分でしょう、そら幽霊が取り付くぞと言って、その草をわたくしの胸へ押し込んだのです。暑い時分で、単衣《ひとえもの》の胸をはだけていたので、ぬれている藻がふところに滑り込んで、乳のあたりにぬらりとねばり付くと、わたくしは冷たいのと気味が悪いのとでぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。市野さんは面白そうに笑っていましたが、悪いたずらにも程があると思って、わたくしは腹が立ってなりませんでした。市野さんが帰ったあとで、わたくしは腹の立つのを通り越して、急に悲しくなって来て、床几に腰をかけたまま涙ぐんでいると、外から帰って来た母が見つけて、どうして泣いている、誰かと喧嘩をしたのかとしきりに訊きましたけれども、わたくしは
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