りませんね。」
「そりゃそうですとも……。」
「あなたも釣りですか。」と、僕は訊いた。
「いいえ。」と、言ったばかりで、彼はすこしく返事に困っているらしかったが、やがてまた笑いながら言った。「虫を捕りに来たんですよ。」
「虫を……。」
「近所の子供にもやり、自分の家にも飼おうと思って、きりぎりすを捕りに来たんです。まあ、半分は涼みがてらに……。あなたの釣りと同じことですよ。」
 きりぎりすを捕るだけの目的ならば、わざわざここまで来ないでも、もっと近いところにいくらでも草原はあるはずだと僕は思った。勿論、涼みがてらというならば格別であるが、それにしても彼は虫を捕るべき何の器械をも持っていない。網も袋も籠も用意していないらしい。すこし変だと思ったが、僕にとってはそれが大した問題でもないから、深くは気にも留めないでいると、市野は芒をかきわけて僕のそばへ近寄って来た。
「そこに浮いているのは幽霊藻じゃありませんか。」
「幽霊藻ですよ。」と、僕は水のうえを指さした。「今じゃあ怖がる者もないでしょうね。」
「ええ、われわれの子どもの時と違って、この頃じゃあ幽霊藻を怖がる者もだんだんに少なくなったよ
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